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第5話 息子との対立

 一人息子の宏也は、私立中学に入ってから清治に反発心を抱き始めた。テストで常に上位になることを求められる子としては、当然のことだったかもしれない。入学後は勉強の成果が上がらず、なかなか清治の若いころのような成績は収められなかった。

 清治に模試の結果を伝えるたびに、「なんで一番になれないんだ。そんなことでは丸の内大学に入れないぞ」と愛のない言葉を投げつけられた。宏也は、大学に入るまで親に叱咤されてストレスを溜め続けるのかと考えると吐き気がし、長く険しい道のりを思うと目まいがした。

 同じクラスに久保木晴彦という秀才がいた。久保木は野球部での厳しい練習に打ち込みながらも成績は常時クラスで三番以内で、ガッチリした体つきと懐の深さが人望を集めていた。

 宏也は久保木と隣の席だったことからすぐに打ち解けた。夏の中学野球県大会に応援に来てくれないかと頼まれ、塾に行くふりをして野球場に行った。久保木はエースで三番。惜しくも敗れはしたが、相手打線を三点に抑え、マルチヒットを打って活躍した。宏也は自分でもびっくりするくらい大声を出して応援した。

 次の月曜日、宏也は久保木を通して野球部への入部を申し入れた。鈍足でキャッチボールもしたことがないのに、たった一試合を見ただけで、野球というスポーツに魅了されていた。それからというもの、毎日泥だらけになって練習をした。ユニフォームは無いので体操服を着て練習に臨んだ。

 母親の多喜子は、泥で汚れた体操服が毎日洗濯籠に出されることに小首を傾げた。おまけにところどころ激しく擦り切れて穴が空いている。買い物の帰りに放課後のグラウンドに寄って目を疑った。

 宏也がノックを受けて、右へ左へと飛んで来るボールを捕ろうと飛び込んでいる。その夜、多喜子は塾から帰宅した宏也に隠し事だけはしないようにと告げた。

 宏也のクタクタに疲れた体はひたすら睡眠を欲しがり、勉強への意欲はベッドの誘惑に負け、次の模試は過去最低点を取った。

 日曜日に両親と食卓を囲んだ時、清治からいきなり突っ込まれた。

「宏也、勉強もしないで野球ばかりしてるみたいだな」

 清治は、宏也が休みの日に朝早くからグローブを持って出かけるのを見逃してはいなかった。

「父さん、俺は、生まれて初めて自分らしい毎日を送ってるんだ。父さんのような秀才じゃないから、この先、丸の内大学を目指すのは無理だ。俺は父さんの操り人形じゃない。もう、過度な期待などせずに放っておいてくれないか」

 勇気を振り絞って向き合った。

「生意気言うな。俺は食うか食われるかの世の中を生きてるからこそ、厳しく言ってるんだ。今のままのお前じゃだめなんだ。つべこべ言わずに、俺の言うことを聞いて勉強しろ」

 宏也はそれ以上反論できず、拳を握って悔し涙を流した。その日から一か月の間、部屋に引きこもって登校もしなくなった。

 清治は見るに見かねて、「もううるさいことは言わないから、学校にだけは行かせろ」と多喜子に命じた。宏也が世の中を勝ち抜くための剣を手にすることはできなくなったとしても、落ちこぼれて反社会的な活動をする人間になってもらっては困る。

 最悪でも我が身に降りかかることだけは避けたかった。家庭内のごたごたが収まらないうちに、清治は福岡支店の支店長として単身赴任することになった。それが終わって帰ってきたのは、私立中学の卒業式が終わったあとだった。

 清治は、宏也が私立中学から公立の野球が強い高校に進むのを黙認した。多喜子の仕事は丸の内大学進学の応援をすることから、宏也が持ち帰る硬球を一緒に洗い、補修することに変わった。いつ、どんなことが起ころうと多喜子は常に宏也に寄り添っていた。

 清治は相変わらず家庭のことはすべて多喜子に任せ、ますます仕事に没頭した。やがてニューヨークへの赴任が決まり、意気揚々と出かけて行った。

 およそ二年半にわたる駐在期間で一度も帰国することはなく、年に数回、事務的な連絡をしてきただけだった。宏也の近況について詳しく訊くことはなく、「高校に通ってるのならそれでいい」と言って短時間で電話を切った。

 清治が帰国したのは、宏也が山手大学に合格した二月だった。宏也は親の血を立派に継いだと見え、野球部の活動が七月に終わってから受験勉強を始めたにもかかわらず、メキメキと成績を上げて現役で合格を勝ち取っていた。

「山手大学ならいいじゃないか」

 清治は久しぶりに再会した妻と息子に満足そうな表情を見せた。宏也は卒業したら祖父のような国家公務員を目指すのか、あるいは自分の跡を追って銀行マンの道を選ぶのか。またかつてのような期待が再燃した。

 ところが、大学四年の六月に、「卒業後は社会人野球の選手になることに決めた」との報告が清治にあった。よく聞くと、大手自動車メーカーへの就職だった。

 多喜子は喜んで受け入れた。大手でも中小でもどんな会社でも、宏也を応援しようとする気持ちは不変だった。清治の心には、まだ事後報告に対するわだかまりが残っていた。

 紅葉が始まったころ、岡谷家に予期せぬ一大事が起こった。なんと、宏也がプロ野球球団の広島カープからドラフト四位で指名されたのだ。清治はドラフト会議当日の夕方、弾んだ声の多喜子から職場に連絡を受けて思わずのけ反った。まさに青天の霹靂だった。

 宏也が大学野球で活躍し、三年次に首位打者を獲得したことは妻から聞いていた。スポーツには無縁の人生を歩んできた清治としては、それがどのくらいの価値があるのか見当もつかず、せいぜい就職に役立てば儲けものだと思った程度だった。

 その夜、宏也がはにかんだ様子で清治に電話をかけてきた。

「もう知ってると思うけど、俺、ドラフトで指名されたんだ。プロ野球の選手になって活躍するから、母さんと一緒に応援して欲しい」

 清治は全く喜ぶ気にはなれなかった。宏也から聞いていた内定の会社名を思い出して言った。

「いつクビになるか分からないプロ野球の球団に入るより、安定した自動車メーカーに就職したほうが絶対いい。俺はそう思う」

 宏也の神経を逆なでする発言だった。宏也は即座に電話を切った。そばで聞いていた多喜子は泣きそうな顔をした。

 アマチュアの野球選手にとってドラフトで指名されれば名誉あることだ。育成契約でもありがたいと喜ぶ選手も大勢いる。それも叶わずプロ入りを諦める者の無念さを思えば、指名されて入団を断ることなど、よほどのことがない限りあり得ない話だった。

 翌朝の早い時間に宏也が実家へやって来た。

「オヤジ、なんでいちいち俺のやることに反対するんだ。プロ志望届を提出してあったし、プロ野球選手になるのは、長年の夢だったのに」

 必死の形相だった。清治はプロ志望届のことは初めて聞いた。

「なら訊くが、そんな大事なことを、どうして俺に相談しておいてくれなかったんだ。いつもいつも、勝手に決めてばかりじゃないか」

 お互いの不満が渦巻いたまま、言葉にならず睨み合った。ついに多喜子の我慢の緒が切れた。

「宏也はせっかく頑張って夢を叶えたというのに、あなたは男らしくもない恨みをぶつけてどうするのですか。いいかげんに子離れしてください!」

 夫に逆らったことのない妻の精一杯だった。玄関の廊下にぽとぽとと涙を零した。

 翌年、宏也は広島カープのユニフォームに袖を通した。

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