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第4話 奇妙な忘年会

 清治がグランドライフビューに入居して八か月が経過した。いつの間にか、テレビは師走の慌ただしさを映している。十二月と言えば、かつては週に四回は得意先との忘年会をこなしていた。

 今は一度もお呼びがかからない。寂寞に包まれた日々を送っていたところ、これまでに経験したことのない忘年会に遭遇した。

 それは、年末まで十日を残すばかりのお昼時のことだった。清治はいつも通り、部屋のタブレットで和洋中の定食の中から一つを選択してレストランに向かった。席がガラガラになる午後一時過ぎから昼食を取るのが常で、顔を出すと馴染みのウェイトレスの田宮厚美がお茶を運んで来た。

「岡谷さん、こんにちは。ご注文は海鮮丼のセットですね。少々お待ちください」

 ホームの入居者は全員名前で呼ばれている。注文のメニューを確認して下がろうとする彼女に小声で訊いた。

「今日はそこで何かあるの?」

「同窓会を兼ねた忘年会のようですよ」

 ヒソヒソ声で教えてくれた。

 清治の席からテーブル二つ離れた場所に、女性ばかり八人が座って華やいでいる。四人掛けのテーブルを二つくっつけて白いテーブルクロスがかけられ、赤いバラの入ったおしゃれな花瓶が中央に置かれていた。

 席の真ん中寄りに座っているのはここの入居者だった。銀髪を後ろで結んだ小ぶりの顔立ちが、穏やかさをにじませている。

 他の参加者は五十代半ばのようだった。洋服は明るい色彩が多い。

 ほどなくして、清治のもとへ海鮮丼をメインにしたお膳が運ばれてきた。醤油さしに手を伸ばそうとした時、彼女らの陽気な話し声が聞こえてきた。

「内田先生は、八十七歳になられたところですよね。白いブラウスがよくお似合いで、いつまでもお若いですわねえ。来年は米寿のお祝いをしなくちゃいけませんわね」

 最初に話しかけた教え子が、年齢や誕生日まで心得ていることに親密度の高さがうかがえた。よく見ると、周りの人たちも同様に相槌を打っている。

 参加者は全員、いかにも元気そうだった。内田さんが正面に座っている女性に名前を尋ねると、「旧姓で、竹井真弓です」と答えた。内田さんは少し上を見上げて頷いた。

「お待たせしました」

 彼女たちの席に料理を載せた配膳ワゴンが近づいて来て、ウェイトレスが手際よく会席料理を並べた。事前予約をしておけば、値段に応じて提供される特別会席だ。街中の料亭に引けを取らない見事な日本料理だった。乾杯用のジュースが注がれ、幹事の発声で開会した。

 始まって五分もしないうちに、内田さんの右隣にいる女性が昔話を始めた。女学生のころの若い記憶が皆によみがえったと見え、次から次へと「先生、先生」と当時を懐かしむように声をかけた。中には涙ぐんでいる人もいる。

 会が盛り上がってきたころ、内田さんが和歌の上の句を暗唱した。

「君がため 惜しからざりし 命さへ」

 ゆっくりとかつ、よく通る声だった。教え子たちは懐かしみつつ聞き惚れていた。一瞬静かになって、全員が下の句を続けた。

「長くもがなと 思ひけるかな」

 また「先生、先生」と呼びかけて、口々に「長生きしてくださいよ」と声がかかった。

 内田さんは微笑んで、再度正面の女性に話しかけた。

「それで、えっと、あなたの名前はなんとおっしゃるの?」

 一同は内田さんと同じ目線で彼女からの返事を待った。

「先生、うっふっふ、旧姓竹井です。先生にかるた部で百人一首を習った時の部長です。福島の女子高時代は本当にお世話になりました」

「ああ、竹井さんかあ。いたいた、しっかりした部長さんだ」

 それと似通った問答が他の参加者にも繰り返された。その度に、「先生、あらいやだわ、もうお忘れですか」と笑ってまた一から説明が始まった。誰も嫌な顔をする人はいない。内田さんを貶めるような態度は一切なく、いつまでも先に進まない会話で盛り上がっていた。彼女たちにだけ許容された時空に誰も入り込むすきなどなかった。

 清治は認知症という病気をすぐ近くで経験して愕然とした。自分が属していた生き馬の目を抜く世界とは、あまりにも異なる現実に声も出ない。その一方で、このホームでは要介護状態になっても退去しなくて良いことを改めて認識した。

 レストランからの帰り際に、事務職員を見つけて内田さんを囲む食事会のことを訊いてみた。

「ああ、あの同窓会のことですか?そう言えば、昨年も特別会席のご予約をいただきました。年末にかつての教え子さんたちが集まってくれるみたいですね」

 続けて、もう一つだけ訊いてみた。

「あのう、内田さんはここに入居して、何らかの理由であのような病気になられたのですか」

 失礼を承知の上での質問だった。

「いえ、そうではなくて、要介護の状態で入居されました。開設して数年は介護専用個室の利用が少ないのを見越して、例外的に外部から入居募集をしているんですよ。成年後見人の妹さんが契約の手続きをしてくださいました。病状についての詳しいことはご勘弁ください」

 清治は礼を言って自分の部屋に帰った。ソファーに座って、生涯を教職に捧げた内田さんと自分の人生とを比べてみた。

 世の中には地位や名誉を追わず、献身的に生きてきた人もいる。そのおかげで、かつての教え子たちが認知症になった恩師の元へ毎年やって来る。

 それに対し、目まぐるしく過ぎた自分の過去を追想すると、常に周りの者たちより努力し、地位やお金を手にしてきた日々が浮かんだ。

 慕って来る部下はいないにしろ、勝ち組の意識が優越感となって心を満たしてくれている。いまさら後悔することなど何もない。そんなことより、認知症の人と比較してどうするのだ。

 清治は心地よい気分でベランダに出た。三羽のカラスが寒風をものともせずに、カアカアと鳴いて飛んで行った。

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