第3話 家族孝行
清治が一番嫌っていたのが連続一週間の強制休暇だった。銀行員は表向きはどうであれ、不正行為の調査という観点から、年に一回は必ずこの休暇を取らされる。
根っからの仕事人間である清治には趣味などなかった。仕事の一環だと割り切ってゴルフを始めたものの、土日を潰してお客さんと行く百叩きゴルフは苦痛でしかなく、趣味と呼ぶにはほど遠かった。
気候の良い十月の第三週、仕事しか頭にない男にぽっかりと休みができた。
前年までの休暇は経済誌を買い込んで家でゴロゴロして過ごしていた。例年と同じような生活が始まったばかりの日曜日に、多喜子が唐突な提案をした。
「そうだ、あなた、仕事をしようにも出勤しちゃいけないんだったら、家族みんなで出かけない?三人で揃って遊びに行ったことなんて、これまで一度もなかったんだもの。宏也を連れて魚釣りに行くっていうのはどうかしら?友達が言ってたけど、千葉県の市原市に海釣り公園があって、竿や仕掛けなど全部揃ってるそうよ。だから、ねっ、お願い」
多喜子は祈るように言った。
清治はたとえ強制休暇にしろ、家族のために自分の時間を割く気は毛頭なかった。元来時間というものは仕事で成果を上げるためにあり、休みの日も仕事に有用なことに使うのが当然であると認識していた。
世間一般の家庭では普通の家族サービスが、清治にはあり得ないことだった。多喜子はそんな夫に文句の一つも言ったことがない。そのありがたみを清治はないがしろにしていた。
年長になった宏也は清治の膝の上に乗って無邪気に遊んでいた。
「ヒロくんも、パパと、ママと、あそびに行きたいなー」
上目遣いに清治を見た。宏也にせがまれて、ふと自分の小さいころを思い出した。
友達が親と出かけるのを見て羨ましがっていると、母親に、「お父さんはお仕事忙しいんだから」と言われて我慢させられた。自分の部屋でいつも一人寂しく遊んでいた。宏也も自分と同じ一人っ子で一緒に遊ぶ兄弟がいないのだ。
「わかった、宏也、じゃあみんなでお出かけしようか」
清治は言ったあとで苦笑した。多喜子が提案した時点では全くその気はなかった。お前にも人間らしいところがあるじゃないか、と心の奥からの声が聞こえた気がした。
「やったー」
宏也は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「ホント?うれしい!」
多喜子は自分の提案が通ったことに信じられないような顔をした。
「しかしなあ、俺は生まれてこのかた、魚釣りなんかしたことないんだぞ。餌の付け方も分からないのに……」
「大丈夫。サビキ釣りという擬餌針の仕掛けを使うから、生きた餌は針につけないそうよ」
晴れ予報の水曜日の朝、清治と宏也はオレンジのパーカーにズボンという普段は見慣れない服装の多喜子に連れ出された。本当に手ぶらでの釣行だった。幼稚園を休んだ宏也は嬉しそうに清治と手を繋いでいる。緑のトレーナーにデニム姿の清治は、駅で通勤の会社員と擦れ違うたびに罪悪感を覚えた。
内房線下りの電車がJR五井駅に着いた。駅から海釣り公園までは無料シャトルバスが走っている。現地に着いて二階の受付で貸し竿の説明を受けた。
「釣りはやったことないんで」
清治はすでにお見通しだと思いつつ、家族三人が素人であることを伝えた。スタッフは、「初めての人は案外多いんですよ」と言って、売店でカゴ付きサビキのセット、カゴに詰めて魚を寄せるコマセという餌などを紹介してくれた。必要なものはすべて揃えた。いよいよ入場券を買って釣り場に移動だ。
「桟橋にもスタッフがいますから、分からないことは遠慮なく訊いてください」
宏也にオレンジのライフジャケットを着せながら言った。清治は海に落ちそうな場所で釣るのかとたじろいだ。
何しろ自分も泳ぐ自信がなかった。学生時代は体育の時間にプールに入っただけで、友達同士や家族で海水浴に行ったことなどない。子供用のライフジャケットの棚に大人用のもあった。事故防止よりも恥ずかしい気持ちが先に立って、つける気にはならなかった。
桟橋に行って空いている場所を探した。釣り座に番号が振ってある。海側に三人で二つ分のスペースを確保した。清治は大きく深呼吸をして、青く晴れ渡った空の下にある東京湾を見渡した。
大きな貨物船が行き交い、ほぼ正面に巨大なビル群が霞んでいる。釣り場からはどんなに手を伸ばしても届かない世界だ。視線を右にずらすと幕張から千葉港方面。左は川崎、横浜方面だろう。すると、突き出ている半島は三浦半島かな。まずは眺めが気に入った。
「ヒロくん、パパはあの大都会でお仕事をしてるのよ。凄いでしょう」
多喜子が指を指して教えている。魚釣りを始める前から楽しそうだった。
清治は竿にセットされているリールから糸を引っ張り、丸いガイドに通した。たぶんこうするのだろうというのは素人でも分かる。その先にサビキの仕掛けをつけようと四苦八苦しているところにスタッフが通りかかった。
頼むと仕掛けに糸を結んでくれた。もう一本の竿にも同様に結んでもらった。たかが糸を結ぶだけにせよ、玉結びしか知らない清治にとっては手品師の技だった。二本借りた竿は、一本が清治用。もう一本が多喜子と宏也用だ。
清治は日常の生活と同じように自分のことを最優先し、サビキのカゴにコマセを入れて仕掛けを海面に下ろしていった。着水したカゴがコマセを少しずつ外に零していく。一番底まで到達して一段落した。
次は妻子の竿の番だ。高さの低いパイプに自分の竿の先端を立てかけて、多喜子と宏也のカゴにコマセを入れた。二人は竿を受け取って、仕掛けをゆっくりと海に沈めた。
「何か釣れればいいわねえ」
多喜子は宏也の肩をぎゅうぎゅう抱いて期待を抱かせた。自分のことより宏也が釣って喜ぶ顔が見たかった。宏也は、「釣れますように」と祈るような声を出した。
二人が持つ竿にビクビクっとアタリが来たのは、宏也がリールを三回巻いた辺りだった。竿の先端が海に引っ張られて曲がっている。清治は、「宏也、頑張れっ」と大声を出した。
多喜子が補助で竿を持って、宏也がリールを巻く。仕掛けが海面より上に上がってきた時に、サビキの先に小さな魚がついているのが見えた。そのままグイッと釣り座まで引き上げた。イワシが三匹。二人にとって人生初めての釣果だ。
清治は大急ぎで共用バケツに海水を入れてイワシを放した。宏也はバケツの中に手を入れて魚に触れるたびにキャッキャと喜んでいる。清治は、「良かったなあ」と宏也の頭を撫でまわして顔をほころばせた。宏也は少し照れて、あどけなく笑った。
多喜子は夢中になってスマホのシャッターを押した。ちょうど通りかかったスタッフに親子三人の記念写真を撮ってもらった。多喜子もまた喜色満面にあふれている。
しばらくして、今度は清治の竿にアタリがきた。自分もイワシかと思いながら上げてみると、アジが一匹釣れていた。
「やったー」と清治が童心に返ったような声を上げたことに一番驚いたのは多喜子だった。清治は獲物を針から外して同じバケツに入れた。アジとイワシが走り回って、さらに賑やかになった。
三人で十五匹ほど釣ったあとは引きがなく、帰りのシャトルバスの時刻に合わせて幕引きとなった。清治は宏也と一緒にバケツを逆さにして魚を海に返した。生きていた魚は海に潜って行ったが、死んだ魚は波間に浮かんだ。
「おおっと!」
隣で釣っていた茶色の野球帽の男が声をかけてきた。
「持って帰らないのなら、生きてるうちに海に返してやらなきゃね。死んでからではかわいそうだよ。不法投棄にもなるし。次からは気をつけて」
釣り場の主が暗黙のルールへの違反を咎めるというよりは、ゆっくりした口調が生き物に対する温かい思いやりを感じさせた。
「あ、そうですね。ごめんなさい」
宏也の頭を押さえて多喜子が謝った。いつもの清治なら舌打ちをして相手の男を見下すところ、「おっしゃる通りです」と言ってお辞儀をした。清治は自分が不思議でならなかった。他人から受けた注意をこんなに従順に受け入れた記憶がなかった。
もう一度その男を見た。白のポロシャツに茶色の野球帽を被った、日に焼けた四角い顔だった。右頬の大きなアザを見ていると相手と目が合って、さっと視線をそらした。
多喜子は洗い場で宏也の生臭くなった手をゴシゴシ洗ってやった。
「また三人で魚釣りに来たいなー」
宏也が嬉しそうに言った。
強制休暇が明けて戻った職場には、相変わらず気ぜわしい空気が流れていた。清治は心に若干余裕があるのを感じつつ席に着いた。




