82 大清帝国の行方
最終話になります。
天は晴れ渡り、先刻来の豪雨が噓のようであった。清西陵から見上げる永寧山の空は青く、まばらに白い雲が風に流されて過ぎ行く。
神道を下り、石牌坊を過ぎ、五孔橋を力なく歩く宦官の丁英泰の姿があった。視線は虚ろで、歩みも弱く、何かを呟いているかのように、泰陵を背にして歩いていた。
泰陵では、掌儀司の崔道光理事官が、陝西省新軍の大隊長に兵隊の撤退を指示していた。そして宗人府の曹強力理事官が廃青と楊鬼山と共に、護摩壇の設置された広場から巾10mの石畳、神道を石牌坊目指して下りている。
各者各様の動きが広大な清西陵の中で、小さく見える。
このイベントから1年程して、醇親王載灃は政権を投げ出した。生来権力に拘泥しない家庭人である彼にとって、泥沼の宮廷喜劇を避けた事は特筆すべき美点であろうか。始皇帝及び雍正帝を降臨させ、新軍に同期させる事が出来たならば、彼岸と此岸の軍隊によって外国勢力を支那から駆逐出来たゞろうか。彼はよい夢だったと諦めたのだろうか。彼の後釜は、言わずと知れた袁世凱、軍閥の元締めだ。
摂政王の側近で宦官の宗人府内書堂、丁英泰学長は易経の研究に戻り、大清帝国の終焉と共に、市井の人となった。
掌儀司の崔道光理事官及び宗人府の曹強力理事官は、そのまゝ袁世凱政府で働いていた。
廃青は青龍寺再建を果たせず、行方不明となった。
楊鬼山のその後の動きは分からない。大清帝国から中華民国となり、新しい中国での足跡が一切見えない。恐らく、その時代の己の役目を終え、蓬莱山若しくは崑崙山に游行しているのではないか、鬼谷子として。
宗人府の主事、劉保及び彼の部下、李来仙も袁世凱政府で働いている。
かつての陝西省巡撫、李玉祥の副官であった馮鶴雲提法使は、陝西省を荒らし回っていた反清復明派の掃討作戦に従軍中、戦死。
セガランは暫く支那の東北地方で疫病対策指導に従事していたが、ペスト対策が一段落すると、呉石を通訳として、友人で作家でもあるジャン・ラルティーグと共に、チベットへと旅立った。
その後、中華民国政府から、再度支那の大唐帝国時代の遺跡の発掘に従事せよとの要請を受け、支那中を巡った。その傍らには何時も呉石の姿があり、彼の残した写真の数々にはセガランと共に、呉の姿も確認出来る。
1912年北京にて、中国語で出版された500部の詩集、“STÈLES(石碑)”には、このイベントに直接言及した詩はないが、秦始皇関連の遺跡調査によって、冥界の入り口について示唆する詩が幾つかある。今後も彼の作品は調査研究され、何時しか彼岸の彼方へ渡る事が出来るであろうか。
最後までお読み頂きありがとうございました。ビットル・セガランの詩集、石碑を全て和訳する事は出来ませんでしたが、幾らかの魅力は表現出来たと思います。チベットも翻訳したかったのですが、時間がありませんでしたので悪しからず。タヒチ時代の話しを描けば、ターロアやタンネの話しも深くなったでしょうが、私の力が足りなく中途半端になってしまいました。次作は書き溜めた物か、セリーヌのその後にするか迷っています。しばしお時間を下さい。何処が足りなかったか、悪かったか、意味不明な箇所があったなら、教えて頂ければ次作にて修正しますので、宜しくお願いします。感謝。




