1.悪辣王女の追放
大陸の北に位置するハイドランド王国の都ハイド。
その中央にそびえる、建立から三百年を経た石造りの城の冬は恐ろしく寒い。極北狐の毛皮でできたコートを羽織っていてなお肌を突き刺してくる冷気が、吐息とぶつかって視界を白く染める。
渡り廊下を速足で歩き切ったオーレリアは、本宮殿の入り口で歩みを止めた。行く手の廊下、アーチが押し並ぶ高い天井を見上げる。
この城は窓が少ない。冬の日の弱さと相まって、そこは不吉に感じるほど薄暗い。魔物が潜んでいそうだ。
再び足を動かせば、その瞬間、金銀の糸で彩られた、踵の高い靴が、足元で甲高い音を立てた。
その音が天井と分厚い壁にあたって生まれる反響に驚いて、再度立ち止まる。
生まれてからの十九年間、オーレリアは人生のほとんどの時間をこの城に閉じ込められて過ごしたというのに、石床がこんなに騒々しいものだと知らなかった。
(そうか、一人になったから……)
今まで何十人もの人に囲まれて移動をしていたから、気付けなかったんだ、と思いあたった。
先のハイドランド王であった父ウリム二世の正后メリーベルや彼女の娘のソフィーナが、一人もしくは数人程度で移動していることは、珍しくなかった。
父とオーレリアの母でもある彼の妾妃は、いつもそんな二人を笑っていたけれど、真に滑稽だったのは父たちのほうだ。そして、その彼らにいいようにされていた自分も。
だから今、私の周囲には誰一人いない――当たり前のことだ、とオーレリアは苦く笑う。
「オーレリアさま、待ってください、なんで先に行っちゃうんですかあ」
(ついてきてはいけないとあれほど言ったのに)
パタパタと音を立てて、後ろから走ってくるまだ幼い侍女の呼びかけに、ぐっと眉をひそめる。
「あなたの同道を許した覚えはありません。戻って侍女長にオーレリアにそう言われたと伝えなさい」
「でも……」
「何度も言わせないで」
戸惑う少女に冷たい一瞥を残して、再び歩き始める。
「……」
前方の暗がりに人が二人いて、オーレリアを見るなり、奥に手を伸ばした。光の縦筋が見えて目を眇める。古びた巨大な木戸が重い音を立てて開いていく。
徐々に光量が増え、寒風が吹きつけてきた。オーレリアの白金の髪を舞い上がらせ、コートとその下のドレスの裾を揺らす。
光の中に複数の人影が見えた。
「やあ、オーレリア、よく眠れたかい」
白い息を吐きながら笑いかけてきたのは、兄であるセルシウス・リニレ・キ・ハイドランドだ。暗殺された父に代わって、一年ほど前急遽ハイドランド王の座に着いた。
優しい微笑を顔に湛えているが、これは彼がいつも被っている仮面だ。オーレリアと同じ造りの顔だからわかりやすいというのもあるが、何より雄弁なのはその目――彼が異母妹のソフィーナに対する時などとは違って、目元がまったく笑っていないのだ。
彼は父母を同じくする妹であるオーレリアを激しく嫌っている。
オーレリアも彼とそっくり同じ顔を作って彼に向け、洗練された所作で膝を曲げ、礼をとる。
「国王陛下自らのお見送り、傷み入ります」
「ヴォーバリア国王との婚儀に向けて、この国の王女であり、我が妹でもある人が旅立つ晴れの日だ。駆けつけないわけがない」
白々しく聞こえるのは、その表情に加えて、彼の背後に用意された馬車がこれまで見たことがないくらい粗末なものだからだ。
「……ヴォーバリアまでの道中の危険を避けるため、敢えて質素なものを用意いたしました」
オーレリアの視線に気づいたのだろう、騎士団長のギャザレンが淡々と告げた。
そして、背後を振り返り、「ヴォーバリアまでこのガードネル・セリドルフがお供いたします」とオーレリアの古馴染みであり、公爵家の嫡男でもある騎士を呼んだ。
「オーレリア、道中には魔物もいる。くれぐれも気を付けるように」
「そのために護衛をつけてくださったのでしょう」
騎士としてのガードネルの力量は相当良いと聞いているが、彼の背後に控えている騎士は十名ほど。魔物に対抗できる人数ではないだろう。
兄の言葉と行動の矛盾に苦笑しそうになるも、押し隠して微笑む。
「北の大地にいる魔物は、力弱きものです。代わりに人の心を乱す――立ち向かうために必要なのは剣ではなく、強く、まっすぐな心です」
「そう、お伽話そのままね。心の美しい者は難を逃れ、汚れた者は命を落とす……忠告をどうもありがとう、ギャザレン」
騎士団長の言葉に隠されていたのは、オーレリアへの完全な当て擦りだった。
兄のみならず、彼にもどうしようもなく嫌われていると再確認する。
「オーレリア、魔物はいるよ。その人の中にある後ろ暗い思いを見つけ出して、誘いかけてくる」
「……まあ、大変」
抑揚のない兄の声には、実感があった。彼が魔物に出会ったのかどうかは知らないが、この人にはこの人で闇があって、しかもそれを自覚しているらしい。
だが、それになんと返せと言うのか――考えるのも億劫で、『見た目だけが取り柄の頭の弱い王女』そのものの答えで応じた。
「……」
ガードネルが一歩前へ出てきて、オーレリアへと無言で頭を下げた。無表情に手を差し出してきた彼のエスコートを受けて、オーレリアは馬車に乗り込む。
コーチの座席に座るなり、外側から鍵がかけられた。
(囚人の移送ってこんな感じかしら)
婚姻のための出立だというのに、兄を含めて結局誰も祝いを口にしなかった、と気づいて笑った。
事実祝い事ではなく、移送なのだろう。結婚という体裁をとっているだけで、実質は北の海賊国家に差し出される人質なのだから。
馬車がゆっくりと動き出した。
この地に豊富に湧き出す清水をめぐらせた堀上の橋を渡り、王都ハイドの街に出る。
城の北門と外郭の北門を結ぶ大通りの両脇には、国軍の兵士たちが立っていた。誰もが視線を伏せ、オーレリアを見ようとはしない。
だが、街の人々はそうではなかった。一体何事だろうというように、兵士たちの合間から顔をのぞかせ、オーレリアに気づくなり、嫌悪を顔に浮かべる。中には、舌打ちしたり唾を吐いたりする者もいる。
「ママ、あの馬車、なあに?」
「オーレリア姫さまのお輿入れだそうよ。ご結婚なさるのですって」
「お姫さま? のご結婚? っ、見たいっ」
「いいから」
興味津々でオーレリアの馬車を見つめる幼子を鋭く制して抱き上げると、母親は「関わってもろくなことが起きない」と首を振りつつ足早に歩き去っていった。
妹のソフィーナが南の隣国カザック王国に輿入れする時は、未明の出発だった。
人気のある彼女を市民に見送らせまいという、先のハイドランド王、つまりは彼女の実の父親の嫌がらせのせいだ。
今のこれは兄の嫌がらせだろう。市民に嫌われるオーレリアを、わざと人目につく時間帯に送り出し、馬車を殊更にゆっくりと走らせる。
「ソフィーナさまじゃない方の姫さんがご結婚なさるんだと。相手はヴォーバリアの首領だとよ」
「この前の内乱の黒幕って噂の王女殿下だろ。なるほどな、なんで死罪じゃないんだって思ってたけど、北海の海賊どもにやっちまうって手があったか」
「そりゃあ、噂どおりお綺麗だし、北の奴らは喜ぶかもしんないけど、ソフィーナ殿下と違って、中身は全然だろ? 前の陛下にかわいがられて浪費し放題、我がまま放題だったって王女じゃ、すぐに戻ってくるんじゃないかね」
「大丈夫だろ。あいつの姿を見たってだけで俺たちを鞭打ちにした前の王さまはあの内乱で殺されちまった。セルシウスさまだってそのせいで死にかけたんだ。戻るに戻れねえさ」
「ソフィーナさまが戻ってきてくださるんなら、大歓迎なんだけどねえ」
兵士たちの向こうにちらほらと見える市民たちが、嫌悪を露わに言いたい放題している。
城でも街でも同じだ――誰も彼もオーレリアとソフィーナを比較する。オーレリアは乾いた笑いを零した。
「見送りに来てやってるってのに、こっちを見ることすらしねえ。ソフィーナさまはいつだって笑顔で俺たちに手ぇ振ってくれたのにな」
「噂通りの性悪ってことだろ。やっぱ美人ってのは、我がままで高飛車になるんだろうね。やだやだ」
「性格が悪い上に役立たずって、ほんと、ソフィーナ殿下と対照的だよ」
オーレリアは正面を向いたまま表情を削ぎ落し、車窓から次々に飛び込んでくる悪意を聞き流す。
ふと、背後でもう一台馬車の音がすることに気付いた。後方の窓を覗けば、さらに粗末な馬車がついてくる。
(来るな、来させるなと散々言ったのに)
あの馬車には、先ほどの幼い侍女が乗っていると察して、オーレリアは蒼褪めると、唇を噛みしめた。
あの子は、どこぞの下級貴族が少数民族の出の愛人に産ませた娘だと聞いた。
厄介払いに王宮に行儀見習いという名目で追いやられたものの、本人にはどうすることもできない醜聞につきまとわれている上、容姿も要領も悪い。
そういう者たちを受け入れてきたメリーベルもソフィーナも既におらず、兄の側に未婚の侍女を軽々しく侍らせるわけにはいかないということで、行き場がなく、ずっと下働きの者に混ざって働いていた。
居場所がないのに、他に行く宛てもない。
そこに居たくないことだけはわかるのに、どこに行ったらいいのか、わからない。わかったところで逃げられない。
――あの子はそういう中で生きてきた。
(だからって、私についてきたってもっとひどいことになるだけなのに)
せめてそれが理解できていれば、私の供などという貧乏くじを引かされることはなかったはず、とこぶしをぎゅっと握りしめる。
輿入れにあたって、何一ついらない、あの子も含めて誰も連れていくつもりはないと言ったオーレリアに、兄は国の対面のためにそれはできないと言った。
だが、外面だけは完璧に整え、慈悲深いとの評判を維持している彼のことだ、あの子が嫌だと言えば無理強いはしなかっただろうに。
(結局のところ、お兄さまも私やお父さまと同類……)
所詮兄も、自分の目的のために、他者を犠牲にして平気な顔をしていられる人間なのだ――かつて彼が自分をメリーベルとソフィーナの側の人間だと見せるために、オーレリアを見捨てたとおりに。
馬車がハイドの街を囲む外郭に設けられた門をくぐる。
反対側にある南正門と対照的に寂れたそこを通過すれば、ハイドの北に位置する北部山脈の方角から、雪交じりの風が吹いてきた。
(初雪……)
見上げた点は厚い雪雲に覆われて薄暗く、その下の大地は人や町の気配どころか木々すら疎ら。不安を掻き立てるような物寂しい風景が、行く方の北へと続いていた。




