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クラリスの働きぶりは直ぐに屋敷内に広まっていた。
また、クラリスに記憶がないという事情があるのにも関らず、非常に明るく、周囲はクラリスがいるとそこにだけまるで大輪の花が咲くように、笑顔が溢れるのだった。
もちろん使用人の間でも、クラリスを悪く言う人間もいた。
しかし、クラリスの記憶喪失は、
「奴隷として色々酷いことをされていたんじゃないかって…」
「劣悪な環境で働かされていたのよ。体に痣があったって聞いたわ。さすがに可哀そうよ。だからここでは普通の生活を…」
と、周囲から同情に近い感情も同時に向けられていた為、嫌がらせをしようとする人はいなかった。
ここ数日は、クロスの姿を見ていなかった。
広い屋敷内で会うのは、使用人たちや、護衛の騎士たち、あとはクロスの側近などだ。
「ねぇ、クロス様はどこにいるの?」
噴水の掃除をしながらスイに聞いた。スイは額の汗を拭い、視線を宙に彷徨わせた後にいった。
「ここ数日は多分地方の視察にでもいってるんじゃない?それか、隣国かなぁ。ファイフ公爵家は特に隣国との繋がりを大切にしているのよ。なんせ、王が変わってからファイフ公爵家をあまりよく思っていないようでずっとぴりついていたのよ。三大公爵のうちファイフ公爵だけ王家の血が入っていないからね。それなのに、領地を拡大し、力を持っているから。それに気づいて旦那様は隣国の関係を重視するようになった。外交を非常に得意としているのよ。でもね、」
スイはまたもや得意げに顎を上げ言った。
「実はそれらの指示を出していたのは、クロス様なの」
「へぇ、そうなのね。クロス様って頭のいい方なのね」
「そうよ!でも、それを知っているのはここで働いている人たち…くらいじゃないかしら」
クロスがどんな人物なのか、未だにわからない。
いつ解雇になるかわからないから、ある程度は人となりを知りたいのだが、全くわからないのだ。
「あのマスクの下の素顔、見てみたい」
「無理よ。見た人はいないもの」
「そうよね。ま、ただの好奇心だけど」
と、ここで突然周囲がざわつく。
スイとクラリスは顔を合わせ、周囲を見渡した。すると、広場の方へ真っ赤なドレスを身に纏う美しい女性が近づいてくるのが見えた。
スイは直ぐにクラリスに耳打ちした。
「奥様よ。頭を下げて」
奥様、という言葉を頭の中で反芻する。
クロスの母親ということだ。地方の別邸で生活していると聞いていたが、たまに顔を出すのかもしれない。
クラリスは頭を下げる。女性は、ゆったりと護衛たちを引き連れ、近づいてくる。
紅の引かれた唇は常時吊り上がっている。
クラリスは周囲のぴりついた雰囲気を感じると、彼女が使用人たちへどんな態度を取っていたのか察しが付く。
「あら、噴水の手入れ?大変よね。あら?あなた見ない顔ね」
直ぐに通り過ぎてくれるかと思いきや、赤髪の女性は足を止め、クラリスたちにそう言う。
クラリスは直ぐに顔を上げた。
女性は微笑を浮かべたまま、クラリスを見下ろしている。
しかし、その目は敵意に近いものを宿している。
女性が少し体勢を前のめりにして、クラリスに更に視線を近づける。
スイが後ずさるのがわかる。
ざっくりと開いた胸元から色香を漂わせる。
「はい、先日からこの公爵邸で働かせていただくことになりました」
「そう、名前は?」
「クラリスと申します」
最初に名乗らなかったのは、本当の名前かどうかわからないからだ。
「私は、ベラーリアよ」
そう言って笑うベラーリアにクラリスは軽く会釈した。
ベラーリアには、何か棘を感じる。
まるで薔薇のようだ。美しいのに、触れると棘で怪我をしてしまう、そんな気がした。
「帰ってきたのですか」
突然、背後から声がした。その声の主は、クロスだった。
クロスは、相変わらず仮面で表情が読めないが、大股でベラーリアに近づく。
目の前まで来ると、ベラーリアは言った。
「久しぶりね。元気にしていた?あなたにわざわざ会いに来たのよ」
「それはありがとうございます」
剣呑な空気が流れる。
ベラーリアはすうっと目を細めると、突然手に持っていた扇子を突然噴水の中に放り投げた。
呆然とするスイとクラリスは何をしているのか、全くわからずその扇子を水越に見つめた。
「あら、手が滑ったわ。拾ってくれない?クロス」
クロスはベラーリアと対峙しながら、笑った。
「相変わらず、性格はどうしようもないですね」
「そんな口がきけるのかしら。早く拾いなさい」
ベラーリアがクロスを嫌っているのは明確だった。
同時に、クロスもベラーリアを嫌うのは無理もない。
クロスが扇子を拾おうと、噴水に入ろうとした、その時…―クラリスが噴水に飛び込んだ。