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day.5

だが、慣れないソファに落ち着かなくて、そわそわしていると、コトッと目の前に緑茶が置かれた。

それからは、湯気がモクモクと出ている。

お茶を淹れてくれた諏訪が、隣にドサッと腰かけた。


「先に言っとくけど、俺は別にここに来たくて、来たわけじゃねぇからな。」


怒っているのかと思い、ちらっと諏訪の顔を盗み見る。

だけど、その表情は、怒っているわけではなさそうだが、いつもより疲れているように感じた。


「…わかっている。どうせ、睡眠薬か何かを嗅がされて、強制的に連れてこられたんだろう?まだ実家に結婚の報告をした覚えはないのだが、どこかから耳に入ったのだろうな。」


眉間に皺を寄せたまま、目頭を強く押さえ、はあぁっと深く溜息を吐いた後、諏訪はポツリポツリと話し始めた。


「…先程いた女は、西園寺 小百合。名家のお嬢さんで、あの女が言っていた通り、彼女は祖母が決めた俺の許嫁だ。」


「お祖母さんが決めたんだ?」


ふぅふぅと熱いお茶を冷ましながら、ズズッと啜る。


「そうだ。」


「ふぅん。でも、その小百合さんと、結婚したくなかったんだろ?そしたらさ、お祖母さんにそう言えばよかったんじゃねぇの?」


諏訪はその表情を僅かに曇らせ、少しだけ俯いた。

長い睫毛が、僅かに揺れる。


「…それは無理だ。」


「何で?」


「無理なものは無理だ。」


膝の上に置いてあった手をギュッと強く握り、固く目を閉じた諏訪からは、強い拒絶の色が滲み出ていた。


今はこれ以上、踏み込むべきではないのかもしれない。


咄嗟にそう判断した俺は、話題を変える。


「……そっか。で?小百合さんと結婚したくなかった理由は?別に彼女のこと、嫌いなわけじゃないんだろ?」


「…人を好きだとか嫌いだとかは、正直よくわからない。ただ、あの女といると、息が詰まる。それだけだ。」


その言葉で、ずっと引っかかっていたものが、すとんと腑に落ちた。


だからか。

先程諏訪が口にした、“愛している”がやけに薄っぺらく聞こえたのは。


「俺といるのは?」


は?という視線を寄越してきたので、小百合さんは息が詰まるなら、俺はどう?と改めて聞いてみる。

すると、ほんの少しだけ間があったが、すぐに答えが返ってきた。


「お前といるのは楽だ。別に気を遣う必要もなければ、愛想を振り撒く必要もないからな。」


これはどう捉えるべきなのだろうか。

俺のことは全く眼中にないから、空気みたいだって思われているのか。


それとも―。


はぁ〜、やめた、やめた!

考えても答えが出ないことを、考え続けるのは、性分じゃない。


「そりゃどうも。よし、こうなった以上、俺も日常を守るため、小百合さん撃退法を練らねぇとな!」





俺の考える、小百合さん撃退法とは。


「どうするつもりだ?」


漸く顔を上げてこちらを見た諏訪の首に、スッと腕を回し、そのまま顔を近づける。

睫毛長っ……。

だが、近くで見ても整っているその顔を、直視できない。


思い付きで行動したことを後悔しつつ、しかし、途中で止めるわけにもいかず、ぎゅっと強く目を閉じて覚悟を決め、初めて触れるだけのキスをした。


初めて触れた諏訪の唇は、意外と柔らかくて、俺の鼓動は自分の意思とは関係なく、ドキドキと鼓動を速める。


そろっと目を開けると、間近にある諏訪の瞳孔が、一瞬大きく見開かれたが、すぐにスンッと元に戻ってしまった。

だが、俺を振り払うこともなく、身を委ねている。


自分からしたくせに、俺も恥ずかしさが限界で、すぐにバッと顔を離した。


たかだかキスだけなのに、何でこんなに心臓がうるさいんだよ!?


この感情を悟らせないために、あえてニヤッと笑ってみせる。


「こ、こうやってラブラブなところを見せつけてやるんだよ!名付けて、ラブラブ大作戦な!」


「ネーミングセンス皆無だな。」


「うるせぇよ!」


「それと、キスが下手クソ。」


「悪かったなぁ!!」


諏訪の方は、特に何も気にしていないようだった。

俺はまだ、ドキドキしているのに……。

その余裕な感じが、ムカつく。


「…時間の無駄な気がするが、一応聞いてやろう。」


「誰のために考えてやってると思ってんだ、このボケがぁ!」


呆れたようにふうっと息を吐いた諏訪の足を、げしっと蹴ってやった。

軽く睨まれたが、気にせず続ける。


「取りあえず、お互いの名前は、ちゃんと呼ぶこと!アンタは俺のこと純也って呼べよ。俺はアンタのこと……と、冬悟って呼ぶから。」


初めて諏訪の名前を呼ぶことに、一瞬戸惑ったが、えぇい!と勢いで呼んでみた。

だが、当の本人は、それも全く気にしていないようで、ただわかったと頷いただけだった。


どんだけ意識されないんだよ、俺……。

いや、意識されても、困るんだけどな。


更に案を捻り出そうとしたが、すぐに諏訪が内線で呼び出されてしまった。


「ここで待っていろ。すぐに戻る。」


部屋を出ていく諏訪の背中を、無意識に視線で追いかける。

広くて大きなその背中が、扉の向こうに消えていくのを見送った後、ずるずるとソファを滑り落ちるように姿勢を崩し、上を向いた。


俺、何でこんなことに巻き込まれてんだろ。そう簡単に、10億円は与えないってか。


ところどころ染みのある、白い天井をぼうっと眺め、ゆっくりと目を閉じる。

今朝の出来事からずっと疲れが溜まっていた俺は、どうやらこのまま眠ってしまったようだった―。





薄っすらと目を開けると、見慣れないソファが目に映った。


そうだ、ここは諏訪のオフィスだった!


そう思い出した途端、ガバっと起き上がると、パサッと肩から何かが滑り落ちていった。


何だ?


床に落ちてしまったそれを確認すると、なんと諏訪のスーツのジャケットだった。


「起きたか。」


声が聞こえた方向に顔を向けると、大きな机で1人、パソコンに向かって仕事をしている諏訪がいた。

カタカタと静かに、だけど素早くキーボードを叩く音が聞こえてくる。


こうして実際に働いている姿を目の当たりにすると、諏訪は学生の俺とは違う世界に生きているのだと、改めて思い知らされた。


なんだか、諏訪が凄く大人に見える―。


じーっと見つめてしまっていたせいか、諏訪がその視線に気付いたようで、フッと顔を上げ、こちらに視線を寄越してきた。


「どうした?」


「い、いや、別に?」


ぱちっと目が合った瞬間、急にさっきのキスを思い出してしまい、1人で勝手に恥ずかしくなって、思わず、しどろもどろになってしまった。


あーもう!変なことするんじゃなかった!!


「…これを終わらせたら帰る。もう少しだけ待て。」


どうやら、帰りたくてそわそわしていると思われたらしい。

このドキドキがバレていないことに、ほっと胸を撫で下ろす。


「わかった。」


諏訪の仕事が終わるまで、ソファに座って、大人しくすることにした。

そっと、俺に掛けてくれていたジャケットを拾い上げると、今まで感じたことのない、不思議な感じがした。


つーか、時々見せるその優しさは、俺を手懐けるための策略なのか?

それとも、天然??


そんなことを考えていると、あっという間に仕事を片付けた諏訪が、帰るぞと声をかけてきて、ハッとする。


ジャケットを持ったまま一緒に部屋を出ると、廊下で見知らぬ男性とばったり鉢合わせした。


「おや?珍しいですネ。社長、今日はもうお帰りですカ?」


その男性は、少し長めの黒髪を持ち、諏訪より身長が高く、細マッチョな感じの優男だった。

だが、どこか掴みどころない雰囲気を醸し出している。

俺に気付いたその男は、こちらを見てニコッと穏やかに微笑んだ。


「これはこれは。奥サマとご一緒でしたカ。随分と可愛らしい方ですネ。」


「茶化すな、周。」


諏訪が、周と呼んだ男を睨みつける。

すると、周さんはわざとらしく肩を竦めてみせ、俺の方に優雅にくるりと向き直り、軽く一礼した。


「申し遅れましタ。私、周 伟と申しまス。社長の秘書を務めておりまス。どうぞ、以後お見知り置きヲ。」


「秘書……?」


「お前の家の引っ越しを行った奴だ。」


驚きのあまり、何だって!?と俺が大声を出したら、周さんはOh…と口を両手で押さえ、申し訳なさそうに項垂れた。


「その節は大変申し訳ございませんでしタ。ですが、誓って、何も盗られていませんし、送り漏れもごさいませン。他人様のお宅に無断で入るのは、私は反対したのですが、社長がどうしてもと仰っテ。ほら私、しがないサラリーマンなので、止められませんでしタ…。」


「いえいえ!周さんは悪くないですよ!悪いのは全部、と、冬悟だし。」


可哀想になるくらい項垂れている周さんに、ブンブンと首を振って悪くないと伝えると、ぱあっとその顔を明るくした。


「そうなんでス!悪いのは全部社長なんでス!」


あれ…?

この人、とんだ食わせ物かもしれねぇ。


「おい周、いい加減にしろ。さっさと帰るぞ、純也。」


イライラとした諏訪の声に、周さんは静かに頷いた。


「そうですネ。お疲れのところ長々とお引き止めしてしまいましタ。申し訳ございませン。それでは、お気を付けてお帰りくださいまセ。」


スッと綺麗に一礼した周さんの横を、諏訪に続いて通り抜けようとすると、こそっと耳打ちされた。


「奥サマとご結婚されてから、社長は早くご帰宅されるようになりましタ。今までは、会社に住む勢いで、仕事をしておりましたのデ。これからも社長のこと、どうぞよろしくお願いいたしまス。」


「え?」


驚いて振り返ると、ニコッと微笑まれ、さぁと手でエレベーターに行くように促される。ペコッと頭を下げると、もう一度丁寧に一礼された。

諏訪の後を追って、エレベーターに乗り込む。


御曹司が、会社に住む勢いで仕事!?

何だ?コイツ社畜なのか!?

も、もしや、実はお金に困ってんのか!!??

でもでも!ちゃんと家はタワマンだし、俺の10億は大丈夫なはずだ!


それに……アイツが俺のために、早く帰ってきてくれているわけがない。

最近、晩飯を一緒に食える時間に帰ってくるのは、偶々なんだ。


だって、アイツは俺に、興味なんてないから。


周さんに言われたことを誤解しないように、自分にそう言い聞かせていると、1階に着いた。


「そうだ、これ返す。」


ずっと手に持っていたジャケットを、諏訪に差し出す。

だが、諏訪は、それを一瞥しただけで、受け取らなかった。


「…外はまだ冷える。その格好では寒いだろう。お前が着ておけ。」


「えっ!?いや、アンタが着ろ…よ……って、もういねぇの。」


それだけ言って、俺の返事も聞かずに、諏訪はスタスタと車を取りに行ってしまった。


「………ありがとう。」


届かないお礼は、吐息に混じって消えていく。

俺の熱で、まだ僅かに温かいジャケットを、ぎゅっと胸に抱え込んだ。





車の窓からネオンサインが流れていくのを、疲れてきってしまった俺は、ぼうっと眺める。


頭は完全に思考停止している筈なのに、なんとなくあの秘書のことが気になった。


「なぁ、周さんって何者なんだ?」


話しかけても、諏訪はこちらに一瞥をくれることもなく、淡々と答える。


「周か?中国人とアメリカ人のハーフで、以前はアメリカの支部で働いていた奴だ。何ヶ国かは忘れたが、最低でも5ヶ国語は話せるから、会社としては重宝している。」


「すげぇ…。」


日本語すら怪しい俺には、5ヶ国語を操れる周さんは、まるで異世界の住人のように思えてきた。


名家のお嬢様に天才秘書。

諏訪の周りには、ネットの世界でしか見たことのない、凄い人達が集まっている。

コイツはやっぱり御曹司で、大企業の社長なんだなぁと、改めて実感した。


だけど、諏訪自身は、誰も寄せ付けない。

もちろん、俺のことも。


アンタも俺も、2人で一緒にいても、ずっと“独り”なんだな。


でも大丈夫。

俺も“独り”に慣れてるから。


走る車の窓に、そんな寂しい男の横顔が2つ、ずっと映っていた。

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