day.4
あの家賃解約事件の後から、1ヶ月程経った。
この1ヶ月の間に、足りない家具やら、欲しかったダイニングテーブルを買って欲しいと頼むも、勝手に選んで、好きな場所に置いておけとだけ言って、一度も一緒に選んでくれることはなかった。
ムカついたから、本当に俺の好きな物を選んで、好きな場所に置いてやった。
だけど、アイツは本当に、一言も文句は言わなかった。
まるで、ここでの生活は、どうでもいいとでもいうように。
それに、結局、アイツは初めて会った時以降、俺を抱くことはなかった。
こんなに俺に興味ねぇのに、どうして結婚の契約話なんて、持ちかけてきたんだろう。
一体、何のために―?
まぁ、今はまだ、俺に害がないから、別にどうでもいいけどな。
だから、俺達の関係は相変わらず、何の進展もないままだ。
今のままでも、俺達にとっては、互いに自由にしていたし、丁度いいと思っていた。
まさか突然、その平和な日常が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちる日が来るなんて、思ってもみなかったんだ―。
今日も1人で朝を過ごし、大学に行こうとマンションのエントランスを出た途端、上品な柔らかい声で、俺の名を呼ぶのが聞こえた気がした。
「あの、瀧本 純也さんですか?」
「へっ?あっ、はい、そうですけど…?」
咄嗟に返事をしたが、聞き覚えのない声に、戸惑う。
空耳だったのか?
そう思ったのだが、真正面から、長く綺麗な黒髪をサラッと風に靡かせた、清純そうな女性が、コツコツと小気味よいヒールの音を鳴らして、真っ直ぐにこちらに向かって近づいてくるではないか。
全く知らない美女が俺に何用かと緊張していると、目の前でピタッと止まった彼女に、突然キッと鋭く睨みつけられ、ビクッと肩が跳ね上がる。
えぇ〜??
俺、何かしましたか!?
「貴方が冬悟さんを惑わした、泥棒猫さんですね。突然で申し訳ありませんが、一緒に来ていただきますわ!」
「はい?」
彼女がパチンッと指を鳴らすと、黒服を着た数人の男達が、複数の方向から俺を取り囲んできた。
「連れて行きなさい。」
「えっ!?いや、俺、大学が」
「問答無用!!」
訳がわからないまま、あれよあれよと取り押さえられ、彼女の赤い車に乗せられそうになる。
これって拉致じゃん!
抵抗しようとジタバタすると、1人の男に、パッと布を口元に押し当てられた。
「ん〜〜〜〜!!!」
薬か!?
これはヤバいっ………!
そう気付いたところで、既に時は遅く、クラッと目眩がしたかと思ったら、グニャリと視界が歪んでいき、そのまま意識を失ってしまった―。
意識を取り戻し、重い瞼を開けると、まだ車の中だった。
どうやら、そんなに眠らされてはいなかったようだ。
「着きましたわ。」
まだ少しぼうっとしながら、窓の外を見ると、そこには大きなビルが建っている。
そのビルには、SUWA Holdings Corp. の文字があった。
どうやら、諏訪の会社に連れてこられたようだ。
「ついてきていただけますか?」
彼女は車のドアを運転手に開けさせ、コツコツと先に歩いていく。
今抵抗しても、どうせまた取り押さえられるだろう。
それに、諏訪を交えて話を聞いた方が、いろいろ早そうだと判断した俺は、大人しく黙って後ろからついていった。
ビルに入ると、中はとても綺麗で広かった。
とある階までの吹き抜け構造で風通しはよく、窓から入る光が、とても明るい。
床だって、ピカピカだ。
それに、働いている沢山の人達も、慌ただしい感じはなく、どこか優雅に見えた。
「冬悟さんに繋いでください。」
彼女が受付にそう伝えると、受付の人はどこかに電話をし始めた。
「小百合様がお見えです。」
「お引き取り願え。」
「それが、今回は金髪の若い男性の方と2人でお見えになられているのですが…。」
「……わかった。通してくれ。」
俺達には聞こえないように、何やらコソコソと電話で会話をした後、受付の人はニコッとこちらに微笑み、ご案内いたしますと立ち上がった。
案内に従い、エレベーターで最上階に行くと、社長室と書かれた部屋だけがあった。
そして、この階だけは、先程の空間とは別世界のようで、厳格な空気が漂っている。
受付の人がコンコンとノックをすると、中から入れという諏訪の声が聞こえてきた。
「どうぞお入りくださいませ。私はここで失礼いたします。」
受付の人がスッと一礼をして、エレベーターで降りていったの見送ってから、彼女は静かにドアを開けた。
目の前に広がった部屋は、思っていたよりも質素だったが、厳かな雰囲気を醸し出している。
「お久しぶりです、冬悟さん。一体全体、これはどういうことですの?」
「…小百合さん。会社には来ないで欲しいと何度もお伝えした筈ですが。今日は純也まで連れて。一体どうされたんです?」
ニコッと胡散臭い程の営業スマイルを浮かべた諏訪を初めて見て、ヒッと震え上がってしまった。
こ、コイツにも表情筋が存在していたのか!
それに、俺の名前を覚えていたことに、何よりも驚いた。
初日以来、呼ばれたことがなかったので、もう忘れられていると思っていた。
それにしても、ブリザードが吹き抜ける程冷え切ったこの空気に、耐えられねぇ。
俺、帰っていいかな?
「私1人では、絶対にお会いしてくださらないので。冬悟さんの愛する妻を、お連れさせていただきましたわ。」
小百合さんはニコッと微笑んだが、その目は一切笑っていない。
諏訪も諏訪で、口調は丁寧だが、冷たい眼差しで小百合さんを睨んでいた。
「それはそれは。妻がお世話になったみたいで。純也、おいで。」
こちらに向かって差し出された手が、“おいで”ではなく、“来い”と告げている。
俺は犬じゃねぇんだが。
不満はいろいろあるが、拉致した張本人といるよりかは、諏訪といる方が安全だと思い、仕方なしにタッと駆け寄る。
すると、大きな手がそっと俺を抱え込んできた。
相変わらずしなやかな筋肉の付いた身体にピタッと密着してしまい、不覚にも、ドキドキと鼓動が速まってしまう。
このドキドキが、どうかコイツに伝わりませんように……!
ぎゅっと強く目を閉じた瞬間に、小百合さんのトンデモ発言が耳に飛び込んできた。
「…許嫁である私に黙って、この方とご結婚された理由をお聞かせいただけますか?」
い、許嫁だとぉ!!??
諏訪に許嫁がいたなんて。
確かに、いてもおかしくはないご身分なのかもしれねぇけど……。
ってか、言っとけよ!!
驚きのあまり、諏訪の顔をバッと見上げる。
しかし、次の瞬間には、グッと頭を押さえ込まれ、顔を胸に押し付けられた。
傍から見れば、ただ抱き締めているような姿勢に見えるのだろうが、多分、今は俺の質問に答える気がないのだろう。
「理由ですか?それは、単純なことです。純也を愛しているからですよ。」
ゾワッと全身に鳥肌が立った。
諏訪の口から“愛”とかいうパワーワードが出てくるなんて、夢にも思わなかった。
それが段々とおかしくなってきて、プッと吹き出しそうになるのを、必死で堪える。
だが、それとは裏腹に、小百合さんの表情は、益々険しいものになっていった。
「そんなはずありませんわ!こんな金髪でチャラそうな、まして女性ではなく男性なんて!どう考えても、冬悟さんと不釣り合いです!」
「不釣り合いかどうかは俺が決めます。そもそも、小百合さんは純也のこと、何も知らないでしょう?」
アンタも俺の何を知っているっていうんだ、と心の中でツッコミつつ、黙って静観に徹する。
俯いた小百合さんは、暫く黙っていたが、やがて、何かを決意したように、震える拳をギュッと握り、真っ直ぐな視線で諏訪を射貫いた。
「…わかりました。そこまで仰るのでしたら、私自身で、この方が本当に冬悟さんに相応しいかどうか、見極めさせていただきます。」
「なっ…!?」
珍しく動揺した諏訪を、小百合さんはスッと目を細めて睨みつける。
「愛し合っておいででしたら、何の問題もないかと思いますが?それとも、本当は嘘を吐いておられるんですか?」
「…いや。何も問題はない。」
諏訪は平静を取り戻し、いつも通り淡々と答えた。
それを聞いた小百合さんはクルッと踵を返し、コツコツと扉の方に向かっていき、出ていく前にピタッと足を止める。
そして、こちらに振り返った。
「それでは、純也さん、明日からよろしくお願いいたします。」
敵意の含んだ目を細め、小百合さんはこの部屋を出て行ってしまった。
その背中をぽかんと見送った後、バッと諏訪の腕から逃れ、絶叫した。
「何が問題ないだ!問題だらけじゃねーか!どうすんだコノヤロー!!」
さすがの諏訪も困ってしまったようで、眉間に深く皺が刻まれている。
はあっと溜息を吐き、来客用のソファを指差した。
「取りあえず、座れ。状況を説明する。」
どうやら、ここにきて諏訪家のお家騒動に巻き込まれてしまったみたいだ。
面倒クセェことになったなと、内心で頭を抱えつつ、ドカッとソファに腰かけた。




