閑話『雨の日には新しい味を』
九重以外の視点の物語です。珍しく。
「ちっ、せっかく人がやる気出してたっていうのによぉ」
久我悠人は窓から雨粒を落とす暗い空を見上げてぼやいた。
本来なら今日は空に浮かぶ国道を探索する予定だった。そのつもりで気合を入れて昨晩は眠ったというのに、起きてみたらこの空模様。
一緒に行くはずだったこのマンションの大家の九重は雨で滑る時に行くのは危険だろ、としごく常識的なことを言って延期となった。
「ごもっともな意見だけどよ。はぁー」
もちろん久我も危険なのはわかるし雨が降ってる時に宙に浮かぶ道路を飛び回るなんてことはしたくない。
「だけど、っあー! この気持ちをどこに持ってきゃいいんだって話だよ。ったく、飲まなきゃやってらんねえ!」
冷蔵庫からレモンサワーを取り出し、一気に胃に流し込む。
久我の部屋にはテーブルがないので立ち飲みである。
MPをまだあまり稼いでいないので物をそんなに買っていないが、しかし部屋の中はある意味殺風景ではない。紙皿や紙コップにティッシュ、敷きっぱなしの布団などごちゃついているからだ。
始めて見た人なら顔をしかめるかもしれないが、ずっとそこにいれば何も気にならなくなる。久我にとっては日常風景にすぎないそこで酒を一気にあおると少しは気が晴れた。
(まったく、酒が飲めてよかったぜ)
ほんの少し前までは、ふざけた奴らに地下室に押し込められて強制労働とまずい飯の日々だったことを思えば、朝から酒を飲む生活なんて、部屋が多少ごちゃついていても信じられない良環境だ。
だが人というのは、よくなればなるほどもっと上に行きたくなるもので、久我も今のこの生活をさらによくしたいと思っている。
そのためにも空の国道でMPを稼ぎたかった。
(ま、グチグチ言っててもしゃーねーか。やることもねーし、晴れた後の稼ぎ計画でも立てるか)
久我は105号室の部屋を出て、エントランスの掲示板へと向かった。
(それに考えようによっちゃ、覚悟する準備が出来てよかったとも言えるし……あそこクソ高ぇもんな)
高いところは苦手だが、しかしMPは欲しい。
板挟みにあいながらもわずかにマンションでの通貨を獲得する欲求が勝っていた。
「俺はできる俺はできる俺はできる……」
久我は地図の前に立ちながら、頭の中で高所への気合を入れている。もちろん今後の計画なんて立てていない。
ガチャ、とその時音がした。
エントランスに併設されている管理人室のドアが開いたのだ。
たしかそこには、羽やらなにやらがある悪魔の管理人がいるんだったな、と久我は思い出す。何度か掃除をしているところを見かけたことがある。
出てきたのはスタイルがよく優雅な所作で燕尾服を着た男だった。だがたしかに羽がある。
「ふむ……やはりあった方が良さそうですね」
「どうしたんだ?」
マンションの入口ドアを開けたり閉めたり出入りしつつ何やら呟いているアンドラスに久我は声をかけた。
アンドラスは完璧すぎるほどの微笑を浮かべながら返答する。
「雨が降っていて気付いたのです。入口にマットのようなものが必要なのではないかと。試しに濡れた靴で出入りしてみましたが、やはり濡れて汚れるし滑りますね」
「あー、なるほど。たしかに建物の入口ってそういうのあるもんだったよーな気もすんな」
「雨の日はあまり外出する人がいませんので問題にはなっていませんが、急に降られてしまうこともあるでしょうし、設置しておきましょう」
「ああ、頼む。ってか働きもんだな、あんた。こんな雨の日まで」
「皆様から貴重な魔力をいただいていますから。契約はしっかり果たします」
「そこんとこは俺にはよくわかんねーけど、まあ、やってくれるなら助かるわ。じゃーなー」
久我は自分の部屋に戻っていった。
当初の目的は話しているうちに忘れている。過去の思考にこだわらないのは久我の長所だ。
105号室に戻って冷蔵庫を開けると、そこにはマヨネーズやソースなどの調味料と、あとはずらっと缶が並んでいた。食べ物はほとんどなく、もちろんその缶は酒だ。
それを見た時、久我は思い出した。
あの悪魔が人間の食に興味があるということを。
「食っつったら酒はマストだよな。アンドラスって飯は食ってるだろうが酒飲んでるのか? 人間の食を学ぶのにこいつがなきゃ始まらねえよなあ!! っし! 今日も働いてたし差し入れしてやるか!」
久我は酒の缶を抱えて管理人室にすぐさま向かっていった。アンドラスはすぐに扉を開けて久我を中に入れる。
管理人室は、そういう名前ではあるものの久我達が住んでいる部屋とも遜色なかった。入ったところの部屋にはエントランスに面した小窓があり、そこで住民とやり取りができるようになっていて、小窓と逆側には奥の部屋への扉がある。そっちの部屋には洗面所やトイレなど生活に必須のものもあるようだ。
だがそれより久我の目を引いたのは、
「うわ、滅茶苦茶本あるな。なんだこれ、『世界の伝統料理」『日本の歴史』『世界の偉人100』。アンドラスこんなに読んでるのか』
ところせましと積み上げられた本、本、本。
料理本・歴史・地理・絵画・ゴシップ・科学・小説・自己啓発本……ジャンル問わず様々な本がアンドラスの部屋にはあった。積み上がった本は洞窟の鍾乳石のようになっている。
「自分は料理に魅了されてからというもの、人間の文化に興味がわきまして。暇さえあれば色々なものを読んでいるのです。とても興味深いですよ。久我様はいかがですか? 本は?」
「あー、俺はいいっかなー。つかどう見てもキャラじゃないだろ? しっかし掃除もして勉強もして偉いなーアンドラスは。そんなアンドラスに、いいもんもってきたんだ」
「いいもの、ですか?」
「ほら、人間の食に興味があるんだろう? だったらこいつは欠かせねえよなあ!」
久我はテーブルの上にビールにサワーにハイボールにと次々置いていった。
「差し入れだ! 飲もうぜ、雨も降ってるしな!」




