首を愛でる
咲耶が森の中の家に戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。いくつかの窓に電気が灯っているのが外からもわかった。中に入ってみると天具が各部屋を回って、古い電球を電力消費の少ないLED電球に交換していた。
「見ろ、通電したぞ」
2階から降りてきた天具が笑った。その笑みが、彼女の後ろに立っている白衣姿の若者に気づくと雲に陰るように消えた。
「……その男は?……見慣れない顔だが……」
「麒麟さんです」
「キリンサン?」
紹介すると、天具が懐疑的な目をした。
――天具、首ヲ黄泉ノ穴ニ運ブ。手伝エ――
麒麟は、人の姿になっても唇が動くことはなかった。相変わらず声は頭の中に直接届く。
「なんだって?」
天具が眉根を寄せる。
麒麟は天具の疑問を無視し、彼の前を通り過ぎた。更にリビングを通り抜け、窓から庭に降りた。裸足で真っ直ぐ池に向かっている。
「あれが麒麟……。本当なのか?」
咲耶の耳元で天具が訊いた。
「本当です。黄泉の穴に行って気づいたら、もうあの姿でした。なかなかのイケメンですよね」
「人の姿に変わるとは……」
「さすが神様です。今日から、ここに住むそうです」
咲耶は笑ってみせたが、天具の顔は面白くなさそうだった。そんな彼を放っておいて、咲耶は庭に降りた。
池は大きな鯉が悠々と泳げるほど深いのだが、水が緑色に濁っていて底がわからなかった。比呂彦が水を入れ替えたのは、かれこれ3年も前だ。今日のような夏休みのことだった。父が汗を流しながら鯉やザリガニを容器に上げ、溜まったヘドロを掻きだしていたのを覚えている。水の緑が濃くなった分だけ、父親の影が薄くなったような気がした。
池の深さも、底に何が沈んでいるのかもわからないはずなのに、麒麟は躊躇うことなく足を進めた。
「危ない……」
咲耶は驚き、そして首をかしげた。池の水は麒麟の足の甲さえ濡らしていない。もっと深いはずなのだ。その証拠に、彼の足より深い場所を鯉の影が逃げ散った。
「さすが、麒麟さまだ」
咲耶の後ろで天具が言った。
池の上に立つ麒麟……。その若者の姿は神秘的で、ファンタジー童話の挿絵のようだった。
池の中ほどに移動した麒麟は、咲耶を一瞥すると腰を折って片手を池の中に入れた。それもまた、手のひらが水に沈む程度だった。
麒麟はすぐに腰を伸ばした。水から出た手は、バレーボールほどの丸い物を握っていた。まるで麒麟の手にそれが吸い付いているように見えた。
「それは津上……」
天具が息をのんだ。
――津上隆斗ノ首ダ――
麒麟が隆斗の頭部を池の縁に向かって投げた。それはふわりと飛んで静かに着地した。まるで見えない手が、そっと置いたようだ。
隆斗の顔は恐怖で歪んでいた。咲耶が東京上空を飛んで森に下りた時に見た表情だ。あの時、自分は麒麟と一体で、彼は麒麟に首を嚙み切られたのだろう。夢だと思っていたものが、実はそうではなかったのだと気づいた。咲耶は、現実と夢のあいまいな境界線に不安を覚えた。これから自分の見たものやしたことを信じられるだろうか?
――ソノ者ノ死ハ、朔ノ願イヨ――
麒麟に教えられ、咲耶はそう願ったことを思い出した。天具も納得したような表情をしている。
咲耶と天具があれこれ考えているのをよそに、麒麟は同じ場所から一歩も動かず、再び手を池に沈めた。そうして引き上げたのは、前の大神、潤女のものだった。その首も投げられた。まるで自分の意思で飛んだように、それは隆斗の首の隣にピタリと止まった。潤女の目が、恨めしそうに咲耶を見ていた。
麒麟が三度目の腰を折る。
――コレハ朔ガ殺シタ首――
その手にあるのは、半月前に咲耶が殺した田尻幸利の頭部だった。肉は腐り、顔の形がくずれて誰のものだか判別できない。が、咲耶にはわかった。
幸利の首を麒麟が投げる。ふわりと飛んだ頭部が潤女の首の隣に着地した。天具が歪んだ顔を咲耶に向けた。
――コレハ、山上比呂彦。霊力ノ強イ男ダッタ。ユエニ山上明心ガ贄トシタ――
次に引き上げられたものは、すっかり池の藻に覆われて丸い石にしか見えなかった。
「見つかっちゃったわね」
咲耶の唇から明心の声が漏れた。驚きや失望の声ではなく、笑っているような声だ。
「咲耶さん……、じゃないのか?」
天具が目を丸くした。
――明心ダナ。朔ノナカニ、明心ト比呂彦ガイル――
「……どうしてそれを?」
麒麟に向かって訊いたのは咲耶の意思だった。母親が父を殺したのは、もう3年ほど前になる。その身体を母と共に解体した時から、父が咲耶の中に住んだ。それをどうして麒麟が知っているのか、それはわからない。
――朔、オ主ト我ハ一心同体。オ主ノ記憶ハ我ノモノダ――
麒麟が比呂彦の首を放った。
「そうなのか?」
咲耶に向かって天具が訊いた。
「一心同体はおかしいです。麒麟さまは、そうして身体を持っている」
咲耶は池の上に立つ麒麟に向かって言った。
――見タ目ニ囚ワレルナ――
麒麟はそう言って池に手を入れた。上げた手には、緑色の髑髏が握られていた。
――コレガ明心。朔が贄トシタ――
「咲耶が母親を贄に……」
信じられないという顔で天具が咲耶を見ていた。
「両親の指示でした。1年毎に、この池に人の頭を供えなければならないと……。父も母もずっと私のここにいて……」咲耶は胸に手を置いた。「……私を支えていてくれました」
「どうして咲耶さんが両親を贄にしなければならなかったのだ?」
「それは……」
咲耶は返事に詰まった。両親が、麒麟の力を咲耶に授けるためにした、とは答えたくなかった。
明心の髑髏を手にしたまま麒麟が水から上がり、それを比呂彦の首の隣に置いた。
――池カラ黄泉ニ通ジルワズカナ穴ガアルカラダ。ソコカラ黒龍ガ異界ノ物ヲ送リ込ンデイタ。コヤツラハ、ソレヲ封ジテイタノダ――
麒麟が明心と比呂彦の藻で覆われた頭部に両手を当て、そっと藻を拭いとった。麒麟の力だろう。中から美しい灰色の髑髏が現れた。
――家ヲ移シタ今、ココニ首ハ不要。朔、首ヲ黄泉ノ穴ニ納メヨ――
麒麟の声の後、比呂彦と明心の声がした。……私たちの役目は終わったということだな。後悔があるとすれば、隣人に迷惑をかけたことだ。……仕方がありませんよ。見られてしまったんですもの。……ああ、咲耶のため、日本国家のためだ。とはいえ、罪は罪……。
「はい」
咲耶は麒麟に答え、両親の髑髏の前に膝をついた。形のあるそれと、胸の中の声がひとつになった気がした。
「麒麟さま、異界の物を抑えていた家がなくなって、東京は大丈夫なのか?」
天具が訊いた。
麒麟は立ち上がり、彼に顔を向けた。広い宇宙を見るような茫洋とした瞳をしていた。
――イズレ贄ガ要ルダロウ。ソレハ彼ノ国ノ民ノモノデモ、主ノ首デモ良イ――
「主?」
天具が背後を振り返った。そこには誰もいない。
「俺の首か……」
彼は自分の太い首をそっとなでた。
(了)