31 茜空
放課後、多くの生徒達がさっさと帰り支度を始めた時の事だ。
「海里」
不意に声を掛けられたので誰かと思ったら翔だった。
「ありがと」
人目を偲ぶように翔が鞄から取り出したのは、白瀬さんが書いた小説の原稿だった。
「めっちゃ読みやすかった。やっぱ紫莉って才能あるんだなって」
実は昼休みの終わりに翔に貸していたのだ。彼女の話しぶりからすると大方授業中に読み終えてしまったのだろう。あれだけ放課後に読めと言ったのに。
ふと、二人で視線を教室前方へと向ける。周囲の生徒達が続々と帰っていく中、白瀬さんは机で気だるげに頬杖を付いている。人がいなくなるのでも待っているのだろうか。
彼女の視線の先にあるのは窓。その向こうの風景をどこか遠い目で見ているのだった。
「今日さ、一緒に帰らない?」
はっとして見ると、翔はすっかり帰り支度を整えた所だった。
「天沼は? いつも一緒に帰ってんじゃん」
俺が言うと、翔は小さく首を振る。その顔は心なしか不満げ。
「先帰ったみたい。ね、いいっしょ?」
俺は、首の後ろに妙なむず痒さを覚えて手でかきむしる。
「分かったよ。帰ろっか」
仕方ないな。今日だけだかんね。そういうニュアンスで俺がぶっきらぼうに言い放つ。
すると、翔の表情が途端に明るくなる。
「サンキュ、海里」
それはまるで、雲間から顔を出した太陽みたいだった。不思議と俺まで心が弾んでくるのだが、悟られないように表情を隠す。
置き勉だらけの軽い鞄を持ち上げ、翔に続いて教室を出ようとする。
その時の事だった。
「ちょっといい?」
声を掛けてきたのは白瀬さんだった。
「話したい事あるんだけど」
腕を組みながらこちらを見据える。有無を言わさぬ物言いだ。
最早隠しもしないギャルモードのまま、俺に付き合えと命じてきたのだ。
だが、生憎俺は翔に誘われたばかりなのだ。
「……」
「翔も来て」
助けを求める俺の目線が翔に行っているのを、白瀬さんは見逃さない。
「わ、分かった」
たじたじになった翔がそれに返す。見た目はきついミルクティーブロンドなのに立場が完全に入れ替わっていた。
白瀬さんについていく形で教室を出る俺達。他の生徒達の視線はずっと背中にまとわりついていて、廊下を大分歩くまで消える事は無かった。
白瀬さんに連れられるまま向かった先は旧校舎だった。
古めかしい階段は薄暗く、空気もじめっとしている。並び立つ新棟のせいで日陰になっているせいだ。四階を越えると掃除されていないのか古臭さも汚れも増していく。
「これじゃ階段じゃなくて学校の怪談だよ……」
「そういうのいいから。黙ってついてきて」
驚異のボケ殺し。俺はしゅんとさせながら白瀬さんに続いた。
「いいの? ここ出入り禁止だよ」
ここから先には屋上に至る扉しかない。翔が忠告するのだが、
「構わないわ」
白瀬さんは立ち入り禁止の黄色いプラチェーンを跨いで越える。扉前のスペースには、使われなくなった机やら資材が寄せられていた。まるで人の侵入を拒むようだ。
白瀬さんに続き、それらを乗り越え、屋上へと続く扉の前で俺達は立ち止まった。
「ここって鍵かかってるんじゃないの?」
緑色の鉄の扉は錆びていて、ドアノブにはご丁寧に『立ち入り禁止』と書かれた札が掛けられている。簡単に出入りできるとは到底思えない。
「これはもう外してあるから」
しかし、白瀬さんの背中は動じない。手を掛けると軋んだ音と共にドアノブが回る。
「マジ……?」
「普通、こういう屋上へは入れないようになっているのに……」
翔だけでなく、俺も驚きを隠せない。
「行くわよ」
いとも容易く進入禁止扉を開け放つ白瀬さん。こちらを振り返りもせず言ってみせる。
開かれた扉からは風が入り込んでくる。
「行くしか無いよな?」
一足先に出ていった黒髪ギャルの背中を目で追いながら、俺は翔に問いかける。
「どのみち紫莉の後に続くしか、あーし達に出来る事ないっしょ」
どうやら、用意していた選択肢は翔も同じだったらしい。
意を決して扉をくぐった先、そこには初めて見る屋上の光景が広がっていた。
教室の窓から見るのとは全く違う、開かれた空。先ほどまでの曇天は消え去っていて、茜色の端に雲の残滓が残るだけ。
「きれい……」
翔がそんな言葉をぽつりと漏らす。
俺は屋上一帯を見回す。薄緑色の床は校舎の形そのままに縦長に伸び、その縁には手すりが張られていた。
その手すりの下には側溝が設けられているのだが、あちこちに泥や落ち葉が溜まり込んでいる。随分と長い間手入れされていないようだ。
「何してるの?」
不意に上から声がしてキョロキョロする俺。
「ここよ」
自分の居場所を誇示する白瀬さんの声。振り返ると、俺達が出てきた塔屋には梯子が備え付けられていて、白瀬さんはその足場に腰を下ろしていた。
彼女の後ろにはもう一つ梯子があって、その上には丸い給水タンクが夕陽に照らされ輝いていた。
「紫莉ったら張りきり過ぎ……」
翔は呆れたように笑うと、梯子に手を掛けて登っていく。
短い梯子はすぐに終わりを迎え、白瀬さんの隣に同じように腰を下ろす翔。
「海里も来なって」
「そうよ。いい景色よ」
二人して俺を呼びつけるのだが、簡単には返事できない。
「その……ちょっと」
『は?』と言いながら、白瀬さんがむくれた顔で俺を見下ろす。ゾクゾクするような視線は相変わらず。
「高所恐怖症なんだけど」
「うるさい。来なさいって言ってんの」
高い場所より白瀬さんのが怖い。ここは上るしかないね。俺も意を決して梯子に手を掛ける。
内履きが梯子を踏みしめる度に冷や汗が吹き出るが、何とか上りきった。。
「ようやく来たわね」
どっかり腰を下ろして眺める先。そこには、東京の街並みが隅々まで広がっていた。
学校周囲の道路を行き交う車や人が遠くまで見渡せる。真っすぐ先にある駅からは丁度、電車が出た所だった。
俺は惚れ惚れする思いで肺臓から息を吐き出す。
「いい景色だな」
「でしょ?」
隣に並んで座るギャル二人もどこか満足気な顔だ。彼女達の横顔は夕陽の朱に染まっている。
翔の向こうに白瀬さんがいて、煌めく瞳はそれ以上の感情の昂りを俺に訴えかけてくる。
「小説読んだよ」
俺がそれだけ呟くと、白瀬さんはそっと目を閉じた。
「桐生先生の仕業ね?」
それ以上言わなくとも、白瀬さんは全てを悟ったようだった。
「てか紫莉。あの殺人事件で殺されてたのって、うちのクラスの女子グループだよね?」
言うべきか迷っていた翔は、意を決して白瀬さんの核心に迫る。
「翔も読んだのね」
「うん……だって紫莉が書いた小説だし」
少し恥ずかしそうに翔はこくりと頷く。それを見ていたら、俺もほっこり笑みがこぼれた。
彼女の新作は以前読んだ推理物とは違い、サイコホラー的な作品だった。
終始ヴァイオレンスな殺人事件が続き、文学というよりもラノベに近い作風だった。
「実在の人物を小説の中で殺すなんて、軽く引いたでしょ?」
自嘲気味に笑う白瀬さん。多分、俺が彼女の性格の悪さをなじった所で、揺るぐ事は無いのだろう。
「すっきりしたし。最高だったよ!」
俺の代わりに翔が答える。
思いもしなかった感想だったせいか、白瀬さんは呆気に取られたように固まり、
「そう。それは良かった」
そして、にこりと笑って頷いた。
翔も同じように頷いている。二人して物語の展開結末に納得しきった様子だ。
「ところでさ。何で今日はギャルの着こなしで来たの?」
感慨深げな白瀬さんに俺は問いかける。
今までは優等生モードを崩さなかった白瀬紫莉。今日の装いはあまりに唐突で、誰もが疑問を感じただろう。それは、白瀬さん本来の姿を知る俺と翔も同じだった。
「朝見た時はびびったっての。いきなりキレないか心配したんだかんね」
そうだそうだ、とまくし立てる翔。
「二人とも自分を偽らないで生きてるって思ったから。だから私も真似したくなっちゃった」
白瀬さんはそう言って舌を見せて笑った。
まっすぐすぎる返答に、俺達はどう返したらいいものか黙りこくってしまう。
そして、その沈黙を破ったのはまたも白瀬さんだった。
「二人とも、ありがとうね。それが言いたくて呼びつけたの」
「それだけの為にこの屋上まで?」
俺が聞くと、白瀬さんは黒い髪を揺らして頷く。
「ええ。特に水梨君にはいろんな物を貰ったからね」
そして、夕空を再び見上げる。暮れなずむ茜空の中には、ちらほらと気の早い星たちが輝き始めていた。
「この空はこの前のお返し。いい景色が見れたでしょ」
そう言って、おもむろに立ち上がる白瀬さん。俺と翔が眼で追うと、彼女はこの塔屋の更に上の場所にある給水タンクまで上り始めた。
「ちょ……紫莉。まだ上るつもり⁉ 危ないよ?」
「文句ある?」
翔が止めようとしても聞く耳持たず。白瀬さんは細っこい梯子に足をかけて器用に上がっていく。タンタンと小気味よく響く靴音。
「さあ、二人とも。屋上の戸締りは私に任せて。もう帰りなさい」
そう言ってタンクの下に腰を掛けた白瀬さん。
「「えっ……」」
「私はもう少しここから見ていたいの」
まだしばらく感傷に浸りたいのだろう。とにかく今日は色々あった。
しかし、彼女が帰れというものの、はいそうですかと言うのも気が引ける。
「戸締りって……無施錠だったじゃないか」
「紫莉はまだ帰らないって事だよね?」
タンクの傍に腰かけた白瀬さんは、黒髪を抑えつけ、彼方の地平を見ている。
「私はもっとここにいるわ。せっかくの屋上だもの。こんな機会そうそうないし」
ちらと、こちらを一瞥する。その視線は何故か俺にではなく、翔に向けられた物だった。
翔は『そっか』と小さく呟くと重い腰を上げた。
「海里、先行くね」
そう言って俺を置いて梯子を下りていく。俺はどうすべきか二人の間で視線を彷徨わせる。
「水梨君も、先に帰りなさい」
「まるで桐生先生みたいな口調だね」
「文句ある?」
白瀬さんは俺に目もくれず、視線は未だ空に向けられたまま。
その姿がどこまでも遠く感じられて、俺はその言葉に従うしかない。
「じゃあ行くよ。一応、気を付けてよ?」
「分かってる」
梯子を下りて忠告すると、白瀬さんは何とも気だるげに、ひらひらと手を振って返す。
開けっ放しの扉の先には、すっかり暗くなった階段が広がっていた。
「ありがとね」
去り際、白瀬さんはそう呟いた。
すんなり入ってきたその言葉。その声はくっきりと俺の耳に残った。




