13話 シグナス・バルナード
深夜の正規軍本部、中将執務室。
月光すら届かない重苦しい暗闇の中、重厚なマホガニーのデスクの後ろに、その男は腰掛けていた。
短い銀髪と、浅黒い肌。左眼は白濁としており、その瞼には縦一閃の傷痕がある。豪奢な軍服を身に纏うこの男こそが、シグナス・バルナード中将である。
カツ、と静かな足音が室内の静寂を破る。
アルマは一切の気配を隠すことなく、正面の扉を開けて歩みを進めていた。その手には、先ほど力づくで分捕ってきた、赤狐の割れた血濡れの仮面が握られている。
ベチャリ、と不快な音を立てて、仮面の破片が中将のデスクへと放り投げられた。
「夜分遅くに悪いね、シグナス大先生。てめぇの可愛い猟犬は地下室の肥やしにしてきてやったよ」
場違いな軽快な声色だが、それが逆に圧を与えている。
しかし、デスクの向こうのシグナスは、眉一つ動かさなかった。驚くでもなく、怯えるでもなく、ただ静かに書類をめくる手を止めただけだ。
「遅かったな、アークライ。君ならば、あと半刻は早くここへ来ると思っていたよ」
「へー、そりゃ買い被りすぎだ」
最初から、すべてを織り込み済みであるような佇まい。
アルマは腰の影縫の柄に手をかけ、昏い殺意を込めてシグナスを睨みつける。
「ま、御託はいいさ。単刀直入に聞くが、シノアをどうするつもりだ。何が目的でわざわざあの子を逃がして、イクリプスに依頼した」
アルマの言葉に、シグナスの指がピクリと反応した。
「君は中々どうして……優秀な男のようだ」
シグナスは小さく息を吐くと、椅子の背もたれに体を預け、アルマの右腕――包帯の下で激しく脈打つ呪詛の腕を見つめた。
「003――シノアを語る前に、君にはある真実を教えよう。知る権利がある」
「真実?」
シグナスがジッと見据える。全てを見透かされているような、奇妙な感覚に陥る。
「君は不思議に思った事はないか? 君も含め、特務の連中は、なぜこうも人間離れしているのか、と」
淡々と語る灰色の瞳。そこには哀れみが含まれている。一体、何を哀れむというのか。
「おい、なんの話しを」
「分かっていたんだろう? 他は知らんが、君は優秀な男だ。ふざけた態度の裏では常に思考が張り巡らされている。勘も鋭い。気付かない君ではないはずだ。違うかな? 死神、アルマ・アークライ」
アルマは影縫の柄から、そっと指先を離した。ここで目の前の男を斬ったところで、何も解決しない。そんなことはお互いに、端から分かりきっている。
アルマの言葉を遮り、シグナスは立ち上がる。
そうして軍靴の音を響かせ、窓から差す月明かりを遮り、アルマの肩をそっと掴む。
ねっとり、へばりつくような声色で、たった一言呟いた。
「――君も被験者だ」
世界から音という音が消えた。
軍靴の擦れる音も、すぐ後ろに立つ中将の息遣いも、自身の鼓動すら、何一つ聞こえない。
自身を取り巻く全ての音が、この世から消えてしまった。
そう錯覚するほど、アルマは衝撃を受けていた。
そんな中でも確かに感じる右腕の呪詛。まるで知らなかった事を嘲笑うかのように、激しく蠢いている。
「いやすまない。訂正しよう、君達は被験者の集まりだ。気付かなかったかね? 名前の通りなんだが。イクリプス――蝕まれる者。君らにピッタリじゃないか。んん? そうは思わんかね」
獲物を捉えた大蛇のように、シグナスは決してこの機を逃そうとはしない。
絶望の淵に叩き落とす算段は、既に立っている。
しかし、当の本人は自分の額をペシッと叩き、
「あー……一本取られたわ。さすがシグナス大先生だ。まさか俺らの人生丸ごとあんたの筋書き通りだったってか」
いつも通りのおちゃらけた口調。ただ、動揺はハッキリと伝わっている。
「強がるなよアークライ」
「別に強がってねーけど? ったくよ、大の大人が組織名で遊びやがって、恥ずかしいったらありゃしない。なーにが蝕まれる者、だ。そんなん見りゃわかんだろ! ほら、この腕みてみろよ!」
裾を捲って、文字通り呪詛に蝕まれた腕を見せる。
「……ふぅ、手強いな君は。化かし合いでは埒が明かん。本題に移るとしよう」
シグナスはアルマのペースに戻ってしまった事を察し、言葉の攻防は無意味だと結論付けた。
自身の席に戻り、ドサリと腰を下ろす。
ここで初めてシグナス・バルナードはアルマと言う一人の人間を見た。
「単刀直入に聞くが、君は003――シノア・クラリッサを引き渡すつもりはあるか?」
「あるわけねーだろ」
その言葉にシグナスは、笑った。含みのある笑みではなく、アルマの態度がおかしくて純粋な笑みが零れた。
「くく、だろうな。君はそういう男だ。だからこそ、今回の任務は君を指名した」
アルマはその言葉にやれやれと言った様子で、大袈裟に手を広げ、
「おいおい、俺の大ファンかよ。引き渡さないと分かってて、わざわざ暗部までけしかけてデータを取ってたってわけか。趣味悪ぃって」
そうおチャラけたアルマだが、頭の中でふと点と線が繋がった。
「もしかしてよ、本格的に神獣討伐に向かわせようってんじゃあねーだろうな」
シノアの魔女としての力は、片鱗だけでも凄まじい。しかし彼女は、まだまだ幼く、神獣と戦うなど夢のまた夢だ。
「ご名答。君の存在が、あの子の戦う理由になるのだ」
「もう一度言うぜ。趣味が悪ぃよ、お前」
「自覚はしてるさ。そこで、取引をしようじゃないか」
シグナスは机の上で両手の指を組み、ねっとりとした灰色の瞳でアルマを見据えた。その表情には、自らの悪辣さを微塵も恥じない、絶対的な強者の余裕が張り付いている。
「取引だ?」
「そうだ。私が責任を持って、彼女の日常を保証してやると言ってるんだ」
「はっ、どんな無理難題を押し付けるつもりだよ。大先生」
吐き捨てるように言ったアルマの声を、シグナスは冷酷な正論で遮った。
「神獣の討伐だ。君と彼女の、二人で」
「――正気か……?」
世界が再び凍りついた。
アルマの脳裏に、つい先ほど、自分の服を焦がしながら普通の少女として泣きじゃくっていたシノアの姿がフラッシュバックする。
あの華奢な十歳の少女を、地獄のような戦場へ連れ出し、世界の命運を背負わせるというのか。
「勿論。あの子が魔女として完全に覚醒さえすれば、神獣を葬る事は出来るだろう。君の言い分はわかるが、こればかりは譲れないな。放っておけばいずれ我々は神獣に滅ぼされる。それを黙って見ていろというのかね?」
シグナスはゆっくりと立ち上がり、デスクを回り込んでアルマの正面に立った。
その佇まいは、まるで人類の救世主であるかのように厳かで、反吐が出るほど歪んでいた。
「力を持つ者の責任を果たしたまえよ、アークライ」
「嫌だと言ったら?」
アルマの瞳から、完全に光が消える。昏い殺意が、室内の空気を物理的に震わせた。
「なに、簡単な事だ」
シグナスはアルマの殺気をまともに浴びながらも、フッと口角を上げた。
「あの子を含め、君らイクリプスに国家反逆の指名手配をかけよう。正規軍、暗部、すべての猟犬が君たちを追う。クローヴスにいるうちは、1秒たりとも平穏は訪れまい。どの道壁外に行くしかなくなるな。追い出されるのと、進んで行くのと、どちらがマシか分からない君ではないだろう?」
「…………っ」
完璧な詰み盤面。
仮にアルマがここでシグナスの首を刎ね飛ばしたところで、国家の歯車は止まらない。シノアは兵器の脱走として、より過酷な地獄へ叩き落とされるだけだ。
ハラワタが煮えくり返るような屈辱と怒り。しかし、アルマはそのすべてを腹の底へ力づくで抑え込むと――次の瞬間、顔にいつものだらしない、腑抜けたアホ面を貼り付けた。
「はは……何から何まで、あんたの掌の上かよ。クソったれが」
アルマは頭をガリガリと掻きむしり、大きなため息を吐き出す。
だがその眼の奥には、決して折れない鋭い光が宿っていた。
「いいぜ。神獣討伐、引き受けてやる」
「ほう?」
シグナスがわずかに眉を動かす。
「ただ、勘違いするなよ」
アルマは歩みを進め、シグナスの眼前にその顔を近づけた。笑っている。しかし、その笑みは死神そのものだった。
「神獣は俺がこの手で殺す。――あいつには指一本触れさせねぇし、戦わせねぇ。あんたのクソみたいな掌の上で踊るのは、今この瞬間で最後だ」
それだけを言い残すと、アルマは背を向け、一切の迷いなく執務室の重厚な扉を押し開けた時、ふと立ち止まり、
「ああ、そういや任務にゃ七日の期限があったな。残り三日、アイツにはただの日常を過ごしてもらうぜ。無謀な神獣の件を引き受けてやってんだ。文句は言わせねーぞ」
バタン、と大きな音が響き、アルマ・アークライの足音が夜の廊下へと消えていく。
静寂が、再び深夜の執務室を支配した。
シグナス・バルナードは微動だにせず、ただアルマの去った重厚な扉を灰色の瞳で見つめていた。その表情には、怒りも、焦りもない。
「ふむ、随分と暖かい死神なようだ」
シグナスは静かに息を吐くと、自らの左手の白い軍手を、ゆっくりと脱ぎ捨てた。
窓の隙間から差し込んだ細い月光が、その剥き出しになった皮膚を冷たく照らし出す。
そこにあったのは、皮膚を無残に焼き焦がした、歪な001の数字――
男は自らの呪われた刻印をただ一瞥すると、何事もなかったかのように再び手元の書類へと視線を落とした。
暗闇の中に書類をめくる無機質な音だけが、世界の歯車のように響き続ける。




