1話 神を穿つ者
とある日の昼下がり、時計塔のてっぺんに、楕円形の奇妙な黒があった。まるで影が立体になっているようで、光を反射せず、本当にただ黒い楕円があるだけという、ヘンテコな光景だ。
しかも、もぞもぞ動いている。
そんな中、突如としてけたたましい警報音が都市に響き渡る。
「……んー、あー……うるッせえな!! 絶好のサボり日和を台無しにしやがってくそぉ……」
黒の楕円を布団のように捲って、不機嫌そうな顔をした男――アルマ・アークライだ。
彼は自身の影を操り、即席ベッドとして、サボっていたのだ。
そんなアルマは愚痴を零しながらも視界で周囲を確認――するまでもなく、その瞳はただ一点を見つめていた。
「あれは、神獣……の眷属……なんで都市の中に!」
視線の先、砂煙の向こうで暴虐の限りを尽くす異形。
ここ城塞都市クローヴスを囲むあの巨大な壁は、よそからの侵略を一切寄せ付けない不落の象徴であるはずだった。
人類の領土の大半を奪い、多くの命を奪い去った絶対的な上位存在――神獣。一体で都市ひとつを容易く殲滅せしめるあの化け物どもから、辛うじて人類を保護している檻、それがこの都市だ。
今、市街地で家屋を破壊しているのは、その下位互換にあたる眷属。
優雅な呼び名とは裏腹に、その容姿は怪物そのもの。
全身を覆う闇のように黒い肌、巨大な胴体から伸びる極端に細長い四肢。関節はあらぬ方向へとバキバキに曲がっている。しかし、それが普通であるように、歪な腕を振り回した。
長く伸びた首の先には、身体とは正反対の真っ白な面。骨が変異したような、生々しさを醸し出している。
その面には小さく無機質な双眸と、面積の半分を占める裂けた大口。
眷属の牙が人間のそれと酷似してるのが、より一層不快感を際立たせる。
そんな存在が今、安全であるはずの壁の内側で暴れ回っていた。
「全くよ、手当弾んでくれるんだろうな」
ため息とともにボヤいたアルマは、勢いよく時計塔から飛び降りた。
重力を無視したような並外れた身体能力。一飛びで優に数十メートルを滑空し、瞬く間に異形との距離を詰めていく。
アルマは眷属の前に降り立つと、目の前の化け物よりも先に辺りを見回した。
家屋は崩壊しているが、今のところ負傷者の姿はない。日々の避難訓練の賜物だろうか。
(よかった。とりあえず死者はいなさそうだな)
アルマはホッと胸を撫で下ろした後、腰に携えた剣を抜き、切っ先を向けてニヤリと笑った。
「よぉ、木偶の坊。随分派手にやった癖にご挨拶もなしか?」
余裕たっぷりの顔に苛立ったのか、それとも神の使いの前に立つ矮小な人間が気に食わないのか、眷属は言葉にならない叫びをあげた。
「あーうるっせぇ……耳元で喚くな。寝起きは機嫌悪いんだよ、俺は」
神獣は人間よりも遥かに強い。しかし、なぜ未だに人類が生き残っているのか。
神の定めた絶対の理に抗い、人類の刃となり神を穿つ専門部隊がいるからだ。
黒を基調とし、銀の装飾を施されたコート。
左胸には黄金に輝く太陽と十字架の紋章。
腰に携えるは神殺しの剣。
その中でもほんのひと握りの者のみ、金色の装飾を許される。
それが対神獣殲滅部隊、特務機関、イクリプス。
「イクリプス第五席、死神、アルマ・アークライだ。ああ、覚えなくていいぜ? どうせすぐに死ぬからよ」
迫り来る眷属の巨大な腕に臆することなく飛び込み、紙一重でそれを躱す。
「――――遅せぇよ」
抜かれた黒の刃が異形の皮膚を裂き、肉を斬る。
肉も、骨すらも断ちきり、刃は腕から胴へ侵入。断末魔さえ許さずに一刀のもとに両断した。
左右に倒れた眷属が、紫色の血の雨を降らす。
血液が地面に落ち、爆ぜる音だけが響いた。
しかし、アルマはげんなりした顔で軽いため息をついた。
「今かっこよくぶった斬って終わるところじゃん! 空気も読まずにわらわら……ゴキブリかっつーの!!」
と、一番空気を読まずに喚くアルマの周囲を、すでに大量の眷属が囲んでいた。
(応援が来るにもまだ時間がかかる。かと言ってチンタラしてたら街がめちゃくちゃ、か……覚悟決めるかぁ)
本日何度目かのため息をつき、アルマは剣を構え直す。
「だぁぁもう、わかったよ。おら、そこ並べ」
怠そうに口にするが、その眼は先程までとは違い冷酷な死神のそれだった。
アルマは刀身を指先で撫で、
「行くぜ、影縫――」
アルマがそう呟くと、黒の刀身から禍々しい紫色のオーラが放たれる。
同時に、右腕を蝕むように広がる呪詛が脈打ちだす。
紫のオーラは無数の枝のように伸び、眷属達の影に触れると彼らの動きがピタリと止まった。
影を物理的に地面に縫い付ける。故に――影縫。アルマの愛刀だ。
「んじゃ、死神様のラブコールだ、存分に感謝して逝っちまいな――」
アルマはそのまま黒い閃光となり、異形の大群へと突っ込んでいった。
◇
眷属が出現してから少しした頃。
アルマと似た団服を着た数人が、焦った表情で都市を駆けていた。彼らはイクリプスを目指す一般の兵卒たちだ。
やがて隊長らしき男が、凄惨な戦場の中心で立ち止まった。
「お、おい嘘だろ……この数を、たった一人で……?」
彼の目に入ったのは、無数の異形の屍。その山の頂に座り、呑気に煙草を吸っている一人の男だった。
無造作に伸びた黒い髪。お世辞にも目つきがいいとは言えない三白眼。
特徴のない、どこにでもいそうな20歳前後の青年。
男はこちらを一瞥すると、まるで「後は頼んだ」と言わんばかりにひらひらと手を上げ、何を言うでもなくその場を立ち去ってしまった。
「隊長、今の人ってもしかして――」
「ああ。黄金の太陽に十字架……特務機関イクリプス――神を穿つ者達だ」
◇
一般兵たちの畏怖の視線を背中に浴びながら、アルマは一人、静まり返った路地裏を歩いていた。
ふと足を止め、紫色の返り血に濡れた剣を払い、鞘にしまう。
そして、左胸にある黄金の太陽と十字架にそっと指先で触れた。
その瞬間、冷たい風とともに、脳裏にあの記憶がフラッシュバックする。
――それは、八歳の頃の記憶。
父親の働く研究施設の奥で、アルマが見てしまった世界の禁忌。
白衣を着た男達が興奮する中、拘束されていた一人の少女の事だ。
美しい蒼い髪と、翡翠の瞳。
しかし彼女の皮膚は、同じ人間のそれとは思えないほど血の様に赤く爛れていた。
少女の虚無を孕む瞳と、周りの男達の興奮を隠さない狂喜があまりに歪でよく覚えている。
紫がかった液体入りの注射を打たれ、この世のものとは思えない叫び声を上げて口から泡を吹く少女。
そのギョロギョロと動く眼球が、一瞬だけ、幼き日のアルマを捉えてピタリと止まった。
憎悪すら消えた虚無の瞳。
まるで、世界すべてを咎めるかのような、絶望の眼差し。
「……あ――」
アルマは、無意識のうちに自分の右腕を強く押さえていた。
痛む訳ではない。あの少女の瞳を思い出すたび、右腕を蝕む呪詛が感情を持ったかのようにざわめき出すのだ。
「……全くよ。なーんで思い出すかな」
アルマは自嘲気味に呟き、いつもの軽い笑みを完全に消し去った。
冷徹で、どこか深い哀しみを湛えた瞳で、巨大な壁の向こうの空を見つめる。
「もし、あの時俺に力が――勇気があれば……いや、今更だな」
ぽつりと言い残し、アルマは再び、いつもの呆けたアホ面を作って歩き出した。




