最初に「壊れそうになる場所」
それは、大きな事件ではなかった。
怒号も、流血も、告発もない。
記録に残るような“異常”ですらない。
だからこそ――
最初に壊れかけたことに、気づけたのは偶然に近かった。
■倉庫の片隅
「……あれ?」
フィリアが足を止めたのは、原種区画から少し離れた、保存用倉庫だった。
視察でも、調査でもない。
ただの巡回。
最近は内部に任せることも増え、彼女自身が倉庫に入るのは久しぶりだった。
「数、合ってるよね……?」
棚に並ぶ木箱。
札に書かれた管理番号。
記録上は、揃っている。
――“上では”。
だが、実物を見た瞬間、フィリアは小さく眉を寄せた。
「……一箱、軽い」
持ち上げるほどでもない。
ただ、指で触れた時の感覚が、いつもと違った。
「これ、開けていい?」
「……確認しましょう」
蓋を外す。
中身は――ある。
だが。
「……量が、少ない」
「……ですな」
青天麦の乾燥サンプル。
一握り分、少ない。
記録には、そんな減少はない。
「腐敗も、事故も、記録漏れも……ないよね」
「ありません」
二人は、無言で顔を見合わせた。
■誰も悪くない、という怖さ
すぐに担当者が呼ばれた。
若い保管係。
真面目で、仕事も丁寧。
これまで一度も問題を起こしたことはない。
「……申し訳ありません。ですが、私は確かに規定量を……」
震える声。
嘘をついている様子は、ない。
「うん、分かってる」
フィリアは、静かに言った。
「責めてない」
「……え?」
「これ、誰かが“盗んだ”わけじゃないと思う」
その言葉に、場の空気が一瞬止まる。
「じゃあ……?」
フィリアは、棚を見回した。
「ね。ここ、鍵は?」
「……施錠はしています。ただ、作業中は――」
「人の出入りが多い」
「はい」
「誰でも触れる」
「……はい」
フィリアは、小さく息を吸った。
「“悪意がなくても”減る場所だ」
■最初に壊れるのは、善意の隙間
盗難ではない。
陰謀でもない。
たとえば――
・研究用に少量を“後で記録しよう”と思って取った
・保存状態を見るために“試しに”抜いた
・問題ないと思って“少しだけ”分けた
どれも、よくある話だ。
だが――
「原種管理地では、全部アウト」
フィリアの声は、淡々としていた。
「一粒でも、勝手に動かしたら“管理”じゃない」
「……」
「誰も悪くない、って状況が一番怖いんだよ!ルールが、“守られているつもり”になる」
「そう」
その瞬間、フィリアは理解した。
(ここだ)
(ここが――最初に壊れかける場所)
■静かな決断
「この倉庫、一時閉鎖」
「……は?」
担当者が、息を呑む。
「全量、再計測。出入り記録、細分化。“理由があっても”、必ず書面で」
「で、ですが……研究が……」
「止めない」
フィリアは、即答した。
「止めるのは、“曖昧さ”だけ」
その言葉に、目を細めた。
「……厳しくなりますな」
「うん」
フィリアは、少しだけ困ったように笑った。
「でもね。ここで緩めたら――」
笑顔が、消える。
「次は、もっと大事なところが壊れる」
■誰にも見えないところで
その日の夕方。
倉庫には、新しい札が掛けられた。
【管理再編中】
【無断立入禁止】
誰も騒がない。
不満も、大きな反発もない。
ただ――
空気が、少し変わった。
「……厳しくなったな」
「でも、分かる」
「前より、安心できる気もする」
そんな、ひそひそ話。
フィリアは、それを遠くで聞きながら思った。
(守るって、こういうことなんだ)
大きな敵と戦うことじゃない。
派手な決断でもない。
誰も悪くない場所に、
きちんと“線”を引くこと。
それは、とても静かで、
とても冷たい判断だった。
⸻
■夜、独り言
夜。
執務室で一人、記録を見直しながら、フィリアは小さく呟いた。
「……ゾッとするね」
何も起きていないのに。
誰も傷ついていないのに。
「壊れる時って、音がしないんだ」
小さな手で、ペンを握り直す。
「でも……気づけた」
それだけで、十分だった。
原種管理地は、今日も無事だ。
だが――
最初に壊れそうになった場所を、
フィリアは、確かに見た。
そしてそれを、
誰にも気づかれないうちに、止めたのだった。
静かで、
けれど確実に――
背筋が冷える一日だった。




