1・別の場所(8)
「涼は、修学旅行で月へ行くの?」
ミドリが冗談の目をして言う。涼はまじめに答えてしまう。
「進学校だから、修学旅行はないんだ。それに、月になんて行けないよ。……あ、もしかしたら、この世界では行けるの?」
ミドリは吹き出した。
「冗談よ。うちのお母さん、子どものころ考えていたんだって。二十一世紀になったら、みんなぴったりした銀色のスーツを着て、エアカーに乗って、学校の修学旅行は月へ行くんだって。なのに、お父さんの田舎じゃ、まだトイレだって水洗じゃないとこがあるって笑ってた。うちじゃ、毎年大晦日に来年の予想を言いっこするんだけど……したんだけど……」
ミドリは、言葉を切って唇をかんだ。
去年の大晦日。その翌日、元旦に衝突の予告があった。
ほとんどの人は、こんな年を迎えるとは予想もしていなかっただろう。この年もこれまでと同じように暮らしていくことに、何の疑問も感じていなかっただろう。
ミドリが顔を上げた。
「だけど、宇宙飛行士は月へ行くでしょ? アポロが月面着陸したのなんて、もう昔の話だし。それから、いろんな国の宇宙飛行士が月に行ってる。もちろん、日本の人だって。しばらく暮らせる基地もあるわ。あたしたちみたいな一般庶民が団体旅行で行くってわけにはいかないけどね」
「……月に?」
「涼の世界では違うの?」
「ほかの国のことはよくわからない。日本だって、国の上層部がしていることは、あんまり公開されないんだ。秘密保護法案は去年も強化されたとこだし。だから、報道もされない。それに、宇宙開発って……軍事にかかわる国家機密だろ」
ミドリは、ちょっと眉をひそめた。
「ふーん……」
涼は、自分が何か間違ったことを言ってしまったような気がした。
「宇宙飛行士は、月へ行ってなにをしてくるの?」
「なにって。月に行って、月面を歩くだけでもすごいことだと思わない? 重力が小さいから、体が軽くなるんだって」
ミドリはちょっと空を見上げた。雨雲に覆われた空には、月は見えない。
「最初の人たちは、月の石をたくさん持って帰って来たんだって。国立科学博物館で、そういう石、見たことある。それに、クレーターってあるでしょ。月に隕石がぶつかったときの……」
ミドリは奇妙な表情を浮かべた。
「……そうか。隕石は、昔からあちこちの天体にたくさん衝突してたのね。月なんて、穴ぼこだらけだもん」
考え込むように、膝の上に頬杖をつく。
「地球だって宇宙にあるんだもんね。隕石がちょっと大きくなったら小惑星だし。いろんな危険の可能性があって当たり前だったんだ。……ただ、宇宙って、時間的にも空間的にもあんまり大きいから……あたしたち、宇宙の中で生きてるなんて、普段考えてもいないんだよね」
涼を見上げる。
「恐竜が滅びるもとになった小惑星が衝突したのはものすごく昔だから、そんなことがまた地球に起きるなんて考えなかった。これからもずっと大丈夫みたいな気がしてた。だけど、あたしたちの『ずっと』なんて、宇宙から見たら、ほんのちょっとの間なのかも」
涼は、なんと答えたらいいかわからない。こういう考え方は、学校でも塾でも習ってこなかった。
「そうだ。宇宙ステーションだけじゃなくて、月面基地にも人がいるんだった」
ミドリの目が輝いた。
「月面基地? ……軍事基地?」
涼には、「基地」と聞けば軍隊のものしか思い浮かばない。
「違うわよ。継続的な月面観測をしたり、天体観測をしたり。月って大気に邪魔されないから、星の観測をするのにもってこいなんだって」
星の観測。
天文部があるということは、涼の通う学校にも、夜空を見上げて観測するのが好きな生徒がいるということなのだろう。成績や素行を少しでもプラスにするのが目的だとしても、そのために「天文部」を選ぶ生徒たちが。
ミドリは、もっと何か言おうと口を開けて、それから笑い出した。
「だめだな、あたし。今夜は自分ばっかりしゃべらないで、涼の世界のことを聞こうと思ってたのに」
「僕の世界?」
涼はびっくりする。自分の住んでいる場所には、ミドリに伝えるような特別なことなど何もないと思うからだ。あそこを「世界」という言葉で考えるのさえ、現実的ではないような気がした。
「ミドリの話を聞くの、おもしろいよ。僕は、しゃべるのは苦手だし」
さらりとミドリの名前を言ってしまって、涼はあとからどきっとした。
姓ではなく、誰かの名前をそんなふうに呼んだのは初めてだった。一瞬ミドリが気を悪くするかと思ったが、ミドリ本人は名前を呼ばれたことにも、涼のとまどいにも気づいてさえいないようだった。
ミドリは首を振る。
「そんなのはつまらない。せっかく涼がほかの世界から来てるのに」
ミドリは、涼がどこか知らない国から来た遠来の客ででもあるかのように言った。
涼は、ミドリの期待にこたえられれば、と思う。何かおもしろい話ができればいいのに、と思う。
「ほかにも、こんなふうに……世界、があるのかな。ここで……リョウ……が、死んで……」
「自分」の死を話題にするのは、なんだか変な気持だ。
「それで接点ができたのなら、ほかの世界の僕はどうなんだろう」
「そうね。でも、今のところあたしが出会った『幽霊』は、涼ひとり」
「僕は、幽霊になんかひとりも会ったことないよ」
涼のまじめな答えにミドリは笑い、そして、ふと真顔になった。
「誰だって、生きてたほうがいいわ。涼は、自分の世界でちゃんと生きてるんだから、いいわ」
一度、ミドリと話している時に、後ろのドアが開いたことがある。ミドリと同じように重ね着した、中年の女性が開けたのだ。
その女性は、寒いとか、風邪をひくとか、そんなようなことを低い声でミドリに言った。
涼のいるはずの場所を見たのかどうか、見たとしても、涼を認めた様子はなかった。
僕は、ミドリにしか見えないのか?
目がかすんでもうひとつの世界が見えるのが、涼のいるところでは涼だけらしいのと同じように。