3・つぎの場所(2)
駅前からバスに乗った。客は、涼のほかに老婆がひとりだけだ。
老婆は、持っていた風呂敷包みを苦労してほどく。中に入っていた重箱のふたを開けて、涼に差し出す。
「兄さん、ひとつどうかね」
渋い緑色と淡い桃色。桜餅だ。
「さあ」
涼がためらっていると、老婆が促す。
「……どうも」
ひとつ取り上げる。本当は、甘いものは苦手だ。それでも老婆がしわの中に目を埋めて、さざ波のような笑顔で見ているので、やむを得ず口に入れる。
さっぱりとした甘みと桜の葉のほのかな塩味。春の香り。
「うまい」
思わず声を上げると、老婆はほっほっほといななくように笑う。そして、自分もひとつつまみあげて頬張る。ついで、ベンチ型の座席からよろよろと立ち上がり、前に行って運転手に勧めている。
「山田のばあちゃん、また運転手の邪魔して、バス走ってるとき席立たねえでって……うっ」
最後のところで、桜餅がひとつ運転手の口に押し込まれたらしい。老婆は両手で重箱を抱えて、また座席にもどる。
食べ物には必要な栄養があればいい。おいしいかどうかはどうでもいい、と涼は思っていた。そして、食事はともかく間食など不要だと思っていた。
最後になにかをちゃんと味わって食べたのは、いつだっただろう。
桜餅はおいしかった。色も、形も、甘みも、塩気も。いいものを食べたという気がした。
涼が降りるとき、老婆はまだ乗っている。
「ごちそうさまでした」
涼が言うと、またいなないて笑って「考えて行きんさい」と言った。
考えて行きなさい。
きっと、「気をつけておいでなさい」という意味なのだろう。
バス停を背にして右へ。背の高い木が三本並ぶあぜ道を、もう一度右へ。
しばらく歩くと、田んぼのまわりにめぐらした柵を修理している男がいる。田植えは終わったばかりで、どの田も明るい緑にきらきらしている。
涼が近づくと、男が顔を上げた。洸だ。
「兄ちゃん」
洸が笑顔になる。
「来たか。泊まっていけるんだな」
「うん。今夜一晩だけだけど」
「よかった。今、北海道から子どもたちが来てるんだ。原発のそばで暮らしてた子たち。ほんのしばらくの間でも、ここでとれたての野菜を食って、きれいな水を飲んで、外で遊んで元気になってもらうんだ。涼も、一緒に遊んだり、勉強みたりしてやってくれ」
「うん」
遊び方は子どもたちに教えてもらわなきゃならないかもしれない。でも、まずやってみよう、と涼は思う。
こういうのも、見る前に跳ぶことになるのかな。
「もうちょっと待ってくれ。この電柵を直してしまうから」
「電柵?」
「うん。これがないと、アイガモのやつらがほかの動物に襲われてしまう。アイガモの脱走防止もあるけどね」
「アイガモ?」
「そうさ。鴨。鳥だよ。もうすぐ田んぼに放すんだ。ここで雑草を食べてもらう。糞は肥料になるし、ご丁寧にちゃんと泳ぎながら足でかきまわして混ぜてくれる。米を収穫したら鴨鍋になる。そのときも食いに来いよ」
鴨鍋。
生きて、役立っていた動物が食べ物になる。当たり前のことかもしれない。
でも、涼はすぐに返事ができない。黙って洸のとなりにすわる。
涼は、英語部の合同研修に出かけたことになっている。いくつかの高校の英語部と一緒に合宿するのだ。それには、明日の夜から参加する。高校の英語部の顧問は折原だ。
「兄ちゃん」
涼が呼びかけると、洸は手を動かしたまま、頭だけ涼の方に向ける。あの秋の日に本丸通りであわただしく会ったときより、だいぶ髪が伸びている。
「……兄ちゃんは、どうして……」
なんと言ったらいいかわからなくて、涼は一旦言葉を切る。
「……どうしてそうしようって思ったの? 学校で言われたことに納得できなかったとき、従わないでいるってこと。……従わないっていうのは違うかな。……黙っていないで聞いてみようって、思えたのはどうしてなのかな。……だって、殴られることもあったのに……」
洸は、ニッパーでぱちんと線を切る。工具箱にニッパーをしまって、それからふっと息を吐いた。
「俺はものわかりが悪いから」
笑顔になって涼を見る。
「おまえは、ちょっと聞いたら全部わかっちゃうやつだったからなあ」
そしてまた、どこまでもきらきらと緑に光る田を見つめた。
「小学五年のときだったかな、友だちの家に遊びに行って、そいつの本を読んでたんだ。本っていってもマンガ。学習雑誌だったけど、うちの親って、そういうの絶対買ってくれなかっただろ。『小学五年生』とか、ああいうやつ」
「うん」
「その雑誌に、ふろくがついてたんだ。『ことわざ・故事・金言集』っていう、小さい手帳みたいな本。それをぱらぱら読んでたら」
思い出すように、ちょっと間をおいた。
「こんなのが載ってた。『ものわかりの良い人間は、自分をまわりに合わせようとする。わからずやは、まわりを自分に合わせようとする。わからずやは世界を変える。だから、世の中の進歩は全てわからずやのおかげである』って。うろ覚えだから正確じゃないよ」
ものわかりの良い人間。まわりに合わせる。
「誰だっけ。外国の作家の言葉だったと思うんだけど」
洸はちょっと考えて、忘れちゃったな、と首を振る。
「俺はそれまで、学校でも家でも、おまえはちっとも他の子と同じにできない、わからずやだ、と言われて叱られてた。でも、世の中を進歩させるのがわからずやなら、俺はわからずやでいいかな、と思った。そう思うと、黙って『まわりに合わせる』より、何か言って殴られる方が楽だってことがわかったんだ。無理しなくていいから」
小さく声をあげて笑った。
「要するに、一番楽な方法をとってきたってことなんだ」
「楽な方法か」
涼が言うと、洸はうなずいた。
「やって気分がいいと思えることをしたらいいんじゃないか、涼も」
やって気分がいいと思えること。
涼は空を見上げる。水色の春の空だ。周囲の山は若葉の緑に染まっている。大地からは、温かな土の匂いが昇ってくる。
目を閉じると、光が体にしみこむようだ。
野見山、僕は日本の春を楽しんでる。
二年生になって、涼はクラスの生徒による選挙で級長に選ばれた。そういうやり方をしている学校もあることを、英語部で別の高校と交流活動をしたとき知ったのだ。
殴られることを覚悟で二年になって変わった担任に提案したとき、担任はしばらく考えた後、思ったよりあっさりとそれを許可した。「自分の高校時代もそうだった」と彼は言った。
クラブ活動を通じて他校の生徒と顔を合わせる機会もできた。人とうちとけるのも、人前でしゃべるのも、相変わらず苦手ではあるけれど、ときおり楽しいと思っている自分に気づく。
四月に登校したとき、教室の窓には鉄格子がついていた。
二年生になって、選択科目や進路によってクラス編成は変わった。教室は三階になったけれど、一年のとき碧の場所だった窓側の一番前には、涼が全く知らない生徒が座った。
涼は、ふと気がつくとその席を見てしまう。そこに碧とミドリを探してしまう。
あるとき、集めた提出物を教卓に持っていったとき、気づいた。
鉄格子にリボンが結んであった。
緑色のリボンが蝶結びになって、風にひらひら揺れていた。
涼は、しばらくそのリボンを見つめていた。
こんなふうにもできる。こんなやり方もあるんだ。
次の日、別の鉄格子に造花の蔦がからませてあった。
トイレには、今も時々、去年の秋に男子生徒が撒いたビラが貼られることがある。すぐはがされるが、しばらくするとまた貼られる。誰かがあのビラを作り続けている。ひとりではない。
鉄格子の向こうに本丸通りの銀杏並木が見えた。
風が吹くと、小さい翼の形をした葉が一斉に羽ばたくのだ。緑色をした妖精の群れのように。
飛べる、かも。
やがて涼の心は鉄格子を超えていく。
【ピーターよりティンカー・ベルへ 僕も飛べるよ】
これで一応の終わりです。
洸が引用する「金言」のもとは、ジョージ・バーナード・ショウです。「ピグマリオン」(マイ・フェア・レディ)などを書いた劇作家です。
記述の間違い、ご意見、ご感想等あればよろしくお願いいたします。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。




