湖へ沈む(挿絵あり)
「嘘だろ……誰か嘘だと言ってくれ……」
湖につくと、ニコラスは膝をついて絶望した。
ジルヴィアとニコラスの二人は、湖にやってきていた。降り立ったのは二人が出会った場所ではなく、切り立った崖になっていて、湖全体を見渡せる場所だった。
久しぶりにやってきた湖の様子はひどいものだった。まず色が汚い。生活排水で汚れた川の水が三本も流れ込んでいるのだ。これが本来の湖の色だというならそうなのかもしれない。
しかし、水際に大量に打ち上げられている魚の死骸はどうだ? 水を飲んで死んだと思われる動物たちの死骸は? 湖を中心として、植物が腐って死んでいく様は本来の姿だというのか?
違う。そんなのは本来あり得なかった光景だ。仮に最初から浄化作用などなく、汚れ切った湖だったならこんな光景はなかったはずだ。
周りに植物などなく、湖の中には魚などいない。湖の水が汚かったなら動物が飲むはずがないのだ。
しかし、湖は綺麗だったから周りには自然があふれた。木々が生い茂り、魚が生まれ、動物たちは水を飲んだ。
それが急に変わった。だから自然はそれに対応できなかった。魚は水が綺麗でなくなったから死に、綺麗な水だと信じて飲んだ動物が毒で死んだ。
目の前に広がる死は本来起こらなかったはずなのだ。その責任は誰にある?
「俺だ……俺が全部悪い。くそぅ……」
ニコラスは声を絞り出すようにそう言った。
そうだニコラスが悪い。ニコラスが女神を連れ出しさえしなければこんなことにはならなかった。
ニコラスのせいで全部死んだ。魚が、動物が、木々が……周りのすべてが死んだ。
ニコラスはそれをすべて理解していた。だから膝をついた。血がにじむほど握りこぶしを作って後悔していた。
しかしそんなニコラスと対照的な声があたりに響いた。
「うわー、これはひどいですね」
無責任な声。単純に目の前の光景を気味悪がっているような声色だった。そしてニコラスは信じられなかった。それがジルヴィアの声だなんて……。
「ジルヴィア……お前なんて……?」
「あんなに綺麗だったのに、こんなに汚れてしまうものなんですね。ちょっと信じられないです」
ニコラスは目を見開く。声だけではなく実際に見てしまったら否定できない。その言葉をジルヴィアが言っていることを否定できない。
「しかしニコラスさんは優しいですね。自分と関係ない動植物の死に涙を流すなんて」
「お前何……言ってるんだ?」
関係ない? 何を言っている? 目の前の女神は何を言っているんだ?
「いやだって、湖が死んでしまったのは私たちとは無関係なんですよ? 町からはちょっと離れた場所にありますし、このあたりの人は困るでしょうけど」
「馬鹿野郎ッ!」
ニコラスは耐えられなくなってジルヴィアの襟をつかみ上げた。急に豹変したニコラスに、ジルヴィアは困惑を隠せない。
「ニ、ニコラスさん。苦しいです……」
「関係ないだと! 関係ないと言いやがったのかくそ馬鹿野郎! お前は目の前の光景を見て何とも思わないのか!?」
「痛ましい光景だとは思います。で、でも、それ以上何を思えというんです? 私たちのせいではないのに」
その言葉に、ニコラスはさらに手の力を強める。
「俺たちのせいじゃないだぁ!? 何寝ぼけてやがるんだ、それでもお前女神かよ! 心が痛まねえのか? これを見てもまだ記憶が戻らないとかほざくのか馬鹿が!」
「き、記憶? 何のことです? 私はニコラスさんの使用人で……」
「そんなもん嘘に決まってんだろうが! てめえは女神で、この湖を浄化してたんだよ! 俺が騙して連れ出したんだ!」
ジルヴィアは首を振る。
「そんなの……嘘です。み、湖を浄化しろということですか? それなら今から」
ニコラスはジルヴィアを突き飛ばした。
「死んだ者は生き返らない! 今更浄化したってこの罪は消えねぇんだよ!」
「きゃぁあああああ」
目を瞑って突き飛ばした。だからニコラスはすぐには気づけなかったのだ。ジルヴィアを崖から落としてしまったことに……。
「ジルヴィア? ジルヴィア!」
慌てて崖際までかけていく。ジルヴィアは悲鳴とともに湖に落ちていった。
「うわあ。ああ! 俺はなんてことを!」
心臓が押しつぶされそうだった。湖を殺してしまっただけでなく、ジルヴィアまで突き落としてしまった。もうこれ以上罪を重ねたくない。
「く……ぅう」
眼下に広がる湖。それは以前の湖とは全く違っている。汚れ、淀み、様々な死骸が浮かんでいる。あそこに飛び込むというのは、死を覚悟しなければならないだろう。
「ジルヴィア……」
ジルヴィアは浮かんでこない。水面にたたきつけられたときに意識を失ってしまったかもしれない。こんな汚染された湖の底に沈んでしまったら……。
「う……わぁああああああ!」
ニコラスは飛び込んだ。崖から。汚れ切った湖に……ジルヴィアが沈んだ湖に!
湖に飛び込むと視界を奪われた。真っ暗で一寸先が見えない。こんな状態ではジルヴィアを探すなんて……。
しかし見えた。ジルヴィアが水の底に沈んでいくのが……。
(ジルヴィア!)
ジルヴィアの周りだけは水が浄化される。しかしすぐにそれは汚い水で覆われてしまう。こんなに大量の水をすぐに浄化するなんて不可能なのだ。
ニコラスは泳いだ。ジルヴィアは沈んでいく。呼吸が続かなくなることなど気にせずに、死骸をかき分け水の重みに耐えてニコラスも沈んでいく。
あと一息。手を伸ばせばジルヴィアの腕がつかめる。そう思ってニコラスは腕を伸ばした。
だが、ニコラスの手がジルヴィアの腕をつかむより早く、ニコラスの腕がジルヴィアの手に掴まれた。
「ふ……ふふ、湖の女神が、湖に落ちて死ぬとでも?」
「ジルヴィア……いや、女神……様。記憶が……。あれ、しゃべれる」
ジルヴィアに手をつかまれた瞬間。それまでの息苦しさがすべて消えた。まるで空気を得たように喋ることすらできてしまった。これが本当の女神の力?
「ジルヴィアで構いませんよ。水に落ちた時に記憶が戻ったようです」
ジルヴィアはそう言って周りを見渡した。
「凄惨ですね。どれだけの詫びの言葉を言っても足りません」
そう言ってジルヴィアは涙を零したように見えた。それは水の泡となって水面に向かって登っていく。
「まずはニコラスさん。あなたを助けます。今すぐ陸にお返ししましょう」
ジルヴィアは優しくそう言ってくれた。しかし、ニコラスは首を振る。
「……いいよ、このまま殺してくれ。本当は自殺しようと思ってここに来たんだ」
今日この湖に来た目的が自殺だったというわけではない。本当に最初。ジルヴィアと初めて出会ったあの日に自殺するつもりだったのだ。
「俺兄弟がたくさんいてさ。みんな優秀なんだよね。俺だけ落ちこぼれなんだよ」
ニコラスには何人か兄弟がいる。全員が何かしらの特技を持っていた。両親にとって自慢の子供たちだった。
しかしニコラスは違った。何をやっても平均より下。何度も周りの期待を裏切ってきた。ニコラスは家の中で孤独を感じるようになっていたのだ。
家の中でお荷物。汚点。期待外れ。十六歳になったのをきっかけに家を出た。探さないでほしいと置手紙を残して……。
家族が連れ戻す気ならできたと思う。それがなかったということは、やっぱり自分は期待されていなかったのだ。なかったことにしたい存在ですらあったのかもしれない。
そう思うと、何をするにも力が出なかった。仕事にありついても長く続けられず、ふらふらとして、行き詰った。
どんな汚れも落とす湖の噂はそんな頃に聞いた。それを聞いたとき、自分の身を投げれば、汚れ切った自分の魂を浄化してもらえるのではないかと考えた。自分の命と一緒に……。
「知っていました」
ジルヴィアの返事は記憶を失っているころと同様優しかった。
「私はあなたがひどく絶望していることを知っていました。だから試したのですよね? 湖が本当に汚れを浄化できるのかどうかを……」
服の汚れを落とすのとみて、ゴミを投げ入れても浄化されたのを見た時点で、力が本物だと理解した。
後は自分の身を投げるだけ……。しかしそこに躊躇いがまだあった。身を投げる度胸が……自殺する度胸がまだなかった。
何気なく石を手に取って湖に投げた。その時、周りにある石をすべて投げ終わったら身を投げようと決めた。ジルヴィアにあたってしまった最後の一投がそれだったのだ。
「でもあなたはそのあと自殺しませんでしたね」
「責任があると思ったからだよ。あんたを助ける義務があると思った」
ニコラスはジルヴィアを放っておくことはできなかった。だから生きた。そして生きる意味を見つけ出しつつあったのだが……。
「結局俺は罪を犯してしまった」
ニコラスは女神を助けるつもりで結局罪を犯してしまった。
女神を騙した罪。それによって金稼ぎをした罪。湖を殺してしまった罪。最後に女神を……ジルヴィアを湖に突き落としてしまった罪だ。
「死ぬべきだ……俺は死ぬべきだよ」
ああやっぱり、湖は心を浄化してはくれないのか。ニコラスの心は汚れ淀んでいく。
「いいえあなたは生きるべきです」
ニコラスがジルヴィアに視線を向けると、ジルヴィアは優しい笑みを浮かべていた。
「私を騙したのは、私を助けるためでしょう? あなたは私の主人を気取って、私に無茶なことをさせようとはしなかった。純粋に助けるためだけに演技をしたのです」
でも金稼ぎをしたじゃないか。それすらもジルヴィアは見通す。
「お金がたまって一番にしたのは、私をお医者様に連れていくこと。豪華な食事をとることでも、遊ぶためでもありません。やっぱり私を助けるためじゃありませんか。第一、あなたは報酬を受け取るだけの努力をしていました。毎日汗だくになって荷車を押す姿は、町の人々に水源の独占をうらやませないだけの美しさがありましたよ」
「町の人が文句を言わなかったのは君の態度が良かったからだよ」
「それなら町の人は私にだけ優しい顔をしたはずですよ。私も手伝うといったのに、荷車を触らせてすらくれない人柄を、みんな愛していましたよ」
そう言ってジルヴィアは微笑む。その笑顔にニコラスは癒されそうになる。だが首を振った。
「湖を殺した罪は消えない!」
「そうですね。ですがあなたは後悔した。心を苦しめて涙を流した。罪にすら気づけなかった私とは対照的に……」
ジルヴィアがそう言って表情を少し崩した。確かにニコラスは湖を殺す原因の一つだったかもしれないが、そもそもそれは女神の罪でもある。その罪だけをもって死ぬべきとは言えない。
「でも俺は君を……ジルヴィアを湖に突き落としてしまった。それは俺の罪だ」
「私を突き落とした罪? 死を覚悟してまで私を助けようと飛び込んだあなたを、私に罪に問えというのですか? 記憶を失って不安だった私を助けてくれた恩人であるあなたを罪を問えと?」
ニコラスはそれでも納得がいかない。だから罰を求めた。だからジルヴィアはそれにこたえる。
「ではあなたに罰を与えます。あなたに与える罰は……」
少しおいてからニコラスの目を見てジルヴィアは告げる。
「あなたの自殺を認めません。生きなさい。それが罰です」
そんなの納得がいかない。そんなの罰じゃない。ニコラスは抗議しようとした。だがジルヴィアは続ける。
「本来神と人間の主張は同数とは数えられません。神の主張のほうが尊重されるべきに決まっています。しかし、私は罪を犯した神です。その主張は人間に勝るとは言えない」
ジルヴィアは悲しい表情を浮かべた。ジルヴィアも苦しいのだ。自分の罪が……。
「私の主張とあなたの主張は等しく同数です。あなたは死にたい。私は認めない。一対一で同数。どちらにも傾かない」
そこでジルヴィアは一度切ってニコラスを見つめる。
「どちらかの主張がどちらかに代わるまで引き分けです。だから、その引き分けをしている間、私を支えてくれませんか? 罪に押しつぶされそうになっている私を……」
ニコラスはジルヴィアの腕をつかんで引き寄せた。そして抱きしめる。ジルヴィアが悲しんでいることを察したからだ。
「私が悪い……私が殺した。ああ……神も自殺することができればいいのに……」
「認めない。俺とお前の意見が等しいというなら。俺もお前の自殺を認めない。永遠にだ」
二人の意見はしばらく均衡を守った。どちらにも傾かなかった。
しかしやがて、その意見はどちらかに傾くことになる。
それは……果たしてどちらに傾いたのでしょう……。
湖はただ美しく、そこに存在していた。
読んでいただきありがとうございました!
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