第二章/ふたりのアイ
〜ふたりのアイ〜
表裏一体、どちらもわたし。
夏のにおいがした。
梅雨を過ぎ、日が長くなった。
時間の感覚が鈍くなるように思われる今日この頃。
藍はひとり公園のブランコにゆられていた。
もう時計は七時を示しているのに、空はまだ明るい。
「もうこんな時間か」
独り言のようにつぶやき、藍はブランコから腰を浮かせた。
なんとなく、憂鬱だった。
だるいのだ。
正直、暑さで気が滅入ったのだと思った。
まださほど気温はあがってはいないが、それでも体温調節がうまくできなかった。
鼻水が出る。
(夏風邪はバカしかひかないっていうし、気をつけないと)
ぼんやりと考えながら、藍は足を帰路へと向ける。
(だけど――この憂鬱は、暑さとかの問題だけじゃない・・・・・・わかってるのに)
重たい参考書の入ったカバンを肩にかけ、のろのろと歩を進める。
こんなときは、よく保志の顔を思い浮かべる。
(あの人なら、いつもだるそうだもの、きっとわたしくらいのだる気なんてしょっちゅうあることだろうな)
思わず苦笑する。
すると、携帯が唸った。
マナーモードにしていたらしい。
電話だった。
「はい、もしもし」
だれからか確かめずに、ぼんやりしながら出た。
「あ、保志だけど、藍・・・・・・?」
(あぁ、保志から電話だ。珍しいな・・・・・・え?)
ぼうっとしていた頭をふりふり、藍はすぐに声色を変えた。
「わ、ご、ごめんなさい!ちょっとぼんやり考え事をしていて・・・・・・保志?」
携帯の向こうから笑い声がした。
心地いい。
「・・・・・・笑ったな」
「あ、ごめん。なんか、すごく声変わってたから」
そりゃそうだ、と藍は後悔した。
たとえるならば、子供をしかりつけていた母親が、電話がきて声色を変えるようなレベルなのだから。
「まあいいや。わたしも電話したかった。あのね、保志」
「うん?」
喉の近くで、出かかった言葉を飲み込む。
言えなかった。
なぜ、憂鬱か。
それは、あなたのせい。
あなたが心配。
代わりの言葉を探し当て、藍は明るい声で言う。
「明日、会える?駅のコンビニで」
「いいけど・・・・・・どうかした?」
藍はごくりと生唾を呑み込んだ。
悪寒がする。
「ううん。なんでもないよ。じゃあ」
半ば強引に電話を切った。
保志の用も聞かずに切ってしまったのは、やはり悪い気はしたが、切らずにいられなかった。
明日、話せばいい。
明日で、いい。
それが何日もつづいていた。
なぜ、保志は雨がきらいなの?
以前、彼に聞いたことがある。
保志はわからないと言った。
どうしても苦手なのだと。
気にしないようにすれば平気なときもあると。
逆に聞かれた。
なぜおれが雨がきらいだって知ってるんだ?
直感だよ。
そう答えた。
行動に出てるのかなあ。
保志は苦笑いした。
それがすてきで、気持ちよくて、なにも言えなくなった。
記憶、ないでしょ。
そんな残酷な言葉、言えなかった。
壊れそうで、言えなかった。
記憶がないことすらわかっていないのかもしれないから。
でも、いつか言わなくてはいけないとわかっていた。
だから、明日言うことにした。
次の日も、言えなかった。
明日言うことにした。
それが、ずっとつづいていた。
それはまさに、『微温湯』だということに気がつきながら。
卑怯なアイ。
保志の前ではにこにこしていて明るいアイ。
ひとりになると、臆病なアイ。
そんな自分が大きらいだ。
勇気のない自分を憎く思う。
どうすればいい?
どうすればいいの?
保志はどうしてほしいの???
藍は自分の腕をぎゅっとにぎりしめた。
(明日言う。絶対言うから)
藍は何度か深呼吸して、携帯電話をチラと見やった。
(わたしにできることをしなくちゃ……たとえ信じてもらえなくても)
つくった拳にぎゅっと力が入った。
藍は自分でも気がつかないくらい思いつめた顔をしていた。
苦しい。
だけど言わなくてはならない。
それが保志のためだから。
夕焼けが知らぬ間に濃いオレンジに輝きはじめていた。
風はなかった。
蒸し暑さだけが藍を包み込む。
(負けない…)
そうだ。
負けてなるものか。
もうひとりの恐れるだけの自分に屈してはいけないのだ。
保志が傷つくかもしれない……そんな弱音など、いや、そんな嘘などに呑まれるわけにいかない。
(保志が傷つくのが怖いのではない……わたしはわたし自身が傷つくのが恐ろしくてたまらないのだ)
そうとわかったからには、意を決しなくてはならない。
意を決することができるのだ。
やっと。
(バイバイ。弱いわたし……わたしは変わるから。なによりも、自分のために)
そこで藍ははっとした。
保志はいつでも人のために生き、行動するだろう。
しかし藍自身は自分のことしか考えていないのだ。
(かすかな、だけどとても大きなちがいだな……)
どうして人間はこうもちがうのだろうか。
みんながみんな人のために生きるわけでも、自分自身のために生きるわけでもない。
時と場合によることもあるし、根本的にちがうこともある。
どうすればいいのかわからなくなる。
強い酒に酔うような錯覚を覚える。
抜け出せないトンネルへ滑り込んだように感じる。
わたしはまちがってるの?
そんな疑問がふつふつとわいてくる。
呪縛のように。
わたしはわたし。
わかっているのに。
あなたはあなた。
知ってるはずだったよ。
なのに。
自分がすごく醜く思える。
汚く見える。
(――保志がわたしにとっての微温湯なんだ)
惑わされる。
甘やかされる。
いけないとわかっていても、無駄だ。
保志を理由に自分が恐怖から逃げていた。
藍にはそれがゆっくりと、理解できた。
(ほら、やっぱりわたしは自分のことしか考えていないんだ……)
でも、もう甘えたりしないから。
藍は心のなかでつぶやいた。
心臓が大きく脈打った。
同時に、ひどく重く沈んだ。
(明日こそは……言うから)
それで藍の憂鬱が消えるわけではない。
疑問がなくなるわけでもない。
暗くよどんだ心が浄化されるわけでもない。
だけど、言うのだ。
それで、少しでも前へ進めるのならば。
少しでも、変われるのならば。
(きっとわたしは変わる。変わらなくてはいけない。生きなくてはいけないんだ――)
なんのために?
わからない。
だけど、生きている。
だからこれからも、可能な限り生きていく。
藍は、心のなかでひとりの自分がせせら笑うのを感じた。
「ほら、また自分の利益にだけ敏感なんだから」
すると、もうひとりの藍が反論する。
「いいじゃない。わたしはわたし。自分を守ることしかできないんだもの」
それなら、と藍は言う。
「それなら、保志はだれが守るの?」
(・・・・・・だれが・・・・・・?)
「生きようとしていない彼を、だれが救えるの?歓びを見出せていない彼に、力はないわ」
(どうすればいいの・・・・・・?)
夕闇が迫るなか、藍はひとり突っ立って、影が伸びるのをいつまでもながめていた。




