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夢森の歌  作者: K_yamada
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網谷明子の高いベッド

 網谷明子はうきうきしていた。

 網谷家は、人も羨む大富豪である。本当に高校生になるまで千円札の存在を知らなかったし、誰もが赤いフェラーリや白いベンツに乗っているのだと思い込んでいた。大学に入っていわゆる一般の感覚に触れると、そんな風に生きてきた明子の心は、何も知らせてくれなかった家族への不信でいっぱいになった。

 普通に、憧れた。水道水を飲む家庭を羨み、靴下を使い捨てる自分に嫌気がさした。そして、どうにか自分を外に連れ出してくれる何かを切望した。それは童話に登場するような王子様でも、小説に登場するような一家離散の悲劇でも良かった。

 彼女はそんな訳で、大学の卒業試験を控えた秋に藪から棒に訪れた国防隊への召集を、非常に意欲的に受け取った。すばしっこくて有名だった明子は、当然のように戦闘方面へ配属される事になった。両親は、そんな明子を止めた。時には言葉ずくで、時には腕を強く掴んで、引き留めた。

「私は、行きたいです」

 もちろん、明子の心は揺れなかった。それに、明子の心がどうであれ、召集は覆せる事でもなかった。

 かくして、明子は配属を明日に迎えた今夜、心躍って仕方なく眠りにつけないベッドの中に居た。大学で学んだだけでも、外の世界はとても明るくて、素朴で、素晴らしかった。ならば、国を守る為に戦う国防隊から見える外の世界は、どんなにも美しいだろう。

「ミャー」

 寮に連れて行こうと決めているペットの猫が、明子の枕元に上ってきて、落ち着かなさそうに鳴いた。名前はない。血統書にまみれたこの猫を、明子はさほど好いてはいなかった。

「みゃあみゃあ」

「ミャー」

 ただ、猫の方は明子を気に入ったようで、誰よりも明子に懐いた。明子が猫の鳴き真似をすると、どんなに気が立っているときでも、すぐに落ち着いた。そんな風に対応されると、明子も邪険には扱えない。

「私はもう、眠たいです。一緒に眠りましょうか?」

「ミャー」

 また、明子はこの猫に、自分の言葉が通じているような不思議を感じていた。餌だと呼ぶと駆け寄ってくるし、風呂だと呼ぶと、服を脱ぐだけの時間を置いてからゆっくりやって来る。明子が悲しんでいれば寄り添うし、喜んでいれば周りではしゃぎ回る。自分の話をまともに聞いてくれない両親に比べれば、よほど意思疎通が楽に思えた。

「楽しみですね。明日から、どんな日になるんでしょう」

「ミャー」

「嫌なんですか?」

 暗闇で表情は窺えなかったが、その声色はどこか寂しげだった。その身を、明子の頬にすり付けてくる。

「私は、楽しみです。だから、あなたも楽しみにしていて下さい」

「ミャー」

 明子がいくら声を掛けても、猫はずっと鳴きながら、身を寄せてきた。明子はそんな猫を両手で包んで、掛け布団の中に入れてやった。

「大丈夫です。何かあっても、きっと私が守ります」

 まるで人間に耳打ちでもするように、明子はごく小さな声で囁いた。それでやっと落ち着いたらしい猫は、その内静かな寝息を立て始めた。

「……怖いんでしょうか。私」

 明子はそう自問して、目を閉じた。




 ぴよぴよぴよ。

 その夢は、明子の子供の頃の記憶であった。

「お父様、出掛けられるのですか?」

 明子は、まだ日も明けやらぬ早朝に、広い玄関で父のズボンを引っ張りながら駄々をこねていた。今日は、家族揃って花見に行く予定だったのだ。

「ああ。急に、仕事が入ったんだ」

「……お花見は、どうなりますか?」

 いくら食い下がっても、父が分かったと頷いて靴を脱ぐ事はない。そんな事はとうの昔に理解していたから、こうして駄々をこねているのは、ただの父への反抗でしかなかった。だが、元来穏やかな明子が反抗するのに、両親の彼女への抑圧がどれだけ必要だったかは、考える必要がある。

「また、来週にでも」

 父は、そんな明子の心境に気付かずか知らぬ振りをしてか、そう言い放った。

「先週も、そう言われました。先々週も、同じ事を聞きました」

「……明子?」

「もう嫌です! 私は、私は一体何なのですか!」

 その時、明子の中で何かが爆発した。何度も爆発しそうになって、その度抑え付けられていた怒りや悲しみや虚しさが、一挙に吐き出されたのだった。

「…………」

 しかし、そんな明子に、父は何の言葉も掛けず出て行った。それから五分ほどの記憶は、明子にはない。多分ただ泣きじゃくっていたのだろうと、明子は想像している。

 目覚めた明子はベッドから起き上がって、自分の胸に手をやった。何度も見る夢ではあるが、決して見心地の良い夢ではない。あの事件以降、明子への両親の対応が、より腫れ物に触るように変わったからだ。

「今は、何時ですか?」

「朝の八時ちょうどにございます」

 いつでも部屋の側にいる執事は、見えない扉の向こうでお辞儀しながら明子に時間を伝えた。

「私は十一時に出れば良いのですよね」

「はい。その通りにございます」

 執事の声を聞きながら、明子はまだ枕に頭を預けて眠っている猫に、掛け布団を掛けてやった。今日はどうも、昨日より格段に寒そうだったからだ。

「お疲れ様でした。今日からは、どんなお仕事にお就きになるんでしょう」

「私めの苦労など。私めは、お暇を頂きます予定で」

「暇? 辞めてしまうのですか?」

 執事も、明子にとっては数少ない家での話し相手だった。両親に対する不満から学校での話など、よく聞いてくれたと思う。

「お嬢様がお戻りになられましたら、私めもまた参ります」

「そうですか……。お元気で、居て下さいね」

「ありがとうございます」

 執事は恭しくお辞儀をした。少なくともそのように、明子は感じた。今日からは、全てが変わるのだ。自分も変わるし、変わる自分に影響されて、皆が変わっていく。

 それが素晴らしい事のように、明子には思えた。

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