第80話 碑文と円環
碑文に近づいていく。
壁に刻まれた文字が、近くで見るとさらに複雑だった。
一層から五層にかけての碑文は、壁の一部に刻まれたものだった。だけど、ここは違うみたいだ。
通路の壁全体、いや天井に近い部分から床近くまで、びっしりと文字が埋め尽くしている。
そして中央に、手のひら大の円が彫り込まれていた。
文字の海の中心に、ぽっかりと空いた円形の空白。
「……読んでみます。」
これは本当に読んでもいいものだろうか…?
――遥かなる時の果てより、我らは待ち続けた。
――王を失った世界を、どうにか我らは守り続けた。
――この場所を、この扉を。この場所とは違う場所から。
――幾度も試みた者がいた。門をこじ開けようとした者が。
――されど、この扉は王にしか開かぬ。
――王の血が鍵であり、王の記憶が礎であり、王の意志が閂を外す。
――力で壊そうとした者は皆、跳ね返した。
――扉はただ、王を待っていた。
――我らも王の目覚めを待っていた。
――今こそその時
――円環に手をかざし、門を開けよ。
――我らはあなたの帰りを待っている。
読み終えた。
「……田中さん。」
リオさんが、小声で言った。
「円のところ、手をかざしてみますか?碑文には王にしか開かないと書いてありましたが、田中さんが王でなければ、何も起きないはずです。」
西条が、一歩前へ出た。
「早くやりなさい、田中さん。」
その声に、これまでとは違う?なんだこれ?
焦りではない、と思う。
何かを期待している?
右手を上げ円環に近づけた。
触れた瞬間、ほのかに光り何かが始まった。
ゴゴゴゴゴゴゴッ
どこか遠くで、重いものが動くような音だった。
石が擦れ、水が流れ、固まっていた空気が動く音が混ざり合って、低く、そして深く、どこまでもダンジョン内に響いていった。
それと同時に、僕の頭の中に何かが流れ込んでくる。
こ、れは、城?いや、戦場?
他にも、謎の炎や雪原、砂漠や海が…知らない場所、知らない景色が、とんでもない速度で頭に流れこんでくる。
そして、今度は人の顔が流れ込んできた。
笑っている人。
泣いている人。
怒っている人。
知らないはずなのに、知っている人たちの顔ように感じる。
名前が…強制的に…無理やりに思い出されていく。
一人ずつ、一人ずつ…そして全員の名前が分かった。
――いや、分かってしまった。
知らないのに、知っている感覚がとても気持ち悪くて吐き気が止まらない。
「ぐぅ……っ。」
頭が割れるように痛い。
僕は膝をついてしまい手が、円環から離れた。
それでも、流れ込んでくる景色は止まらなかった。
見えたのは戦いの記憶。
長い、長い戦いの記憶が、怒涛のように流れ込んでくる。
――辛勝した記憶
――惨敗した記憶…誰かを失った記憶
そして、最後に――
全てを捨てて、逃げだしてしまった記憶
――みんな…ごめん。ごめんなさい。
「――たな…ん…田中さんっ!」
リオさんの声が聞こえ、意識が戻ってくる。
後ろでは、西条のこれまでと全然違う声がする。
「……やっと見つけた。」
西条は全身を震わせていた。
「……やっと、見つけた。8年だ。8年間、ずっと探し続けた。ずっと待ち続けたっ!」
西条が、独り言のように言っていた。
「やっと、役目を終わらせ帰ることができる…。」
その言葉の意味を、痛みを抑えながら考える。
役目が終わる?
王を見つけること?
でも、なんで西条がそんなことを?
「……門が、開きました。」
部下の一人が、どこかへ報告していた。
「社長に連絡を。王が見つかりました。碑文が反応しました。帰還の門も開通しています。」
――帰還の門。
――門を開いたことで、アルカディアへの道まで準備できた。
西条が、ゆっくりと僕の方を向いた。
その表情が、変わっていた。
仕事の顔ではなく安堵と、狂気が紙一重で混ざり合った顔で僕を見ていた。
「……田中さん。」
西条が、内ポケットに手を入れた。
「ありがとうございました。おかげで任務が完了します。」
「……任務、という、のは。」
「王を見つけ、処分する、それだけのことです。王さえ消えれば、この門を使って我々は帰れる。8年間、私たちそれだけのために動いてきました。」
リオさんが、息を呑んだ。
「……殺す、つもりですか?」
「率直に言えばそう言うことになります。」
西条が、穏やかに言った。
その穏やかさが、一番怖かった。
頭の中で、記憶が未だに渦を巻いている。
…痛い。
僕という意識が、押し流されそうになっていく。
流れ込んでくる記憶が、あまりに多すぎる。
見える景色が…あまりに鮮明すぎるせいでまるで自分が経験したかのように錯覚するほどに。
――その時だった。
「……もう十分だ…。」
――声が聞こえた。
気づくと自分の口から、その声が発せられていたことに気づいた。
自分の口から出た声のはずなのに、自分の声色じゃない?
もっと低く、もっと落ち着いた声だった。
西条が、動きを止めた。
「……っ!?」
リオさんが、僕を見て固まった。
僕は、ゆっくりと立ち上がっていて西条を前に仁王立ち状態に。
頭の痛みはすでに引いており、記憶の混濁が、見えていたはずの景色がもう見えていなかった。
まるで、誰かが整理してくれたかのように。
「…久しぶりだね、閉門衆の方々。」
それは僕の言葉ではない。
だって、閉門衆なんて僕はちゃんと知らないっ!
その言葉は僕じゃない誰かの言葉だった。
西条の顔が、みるみる変わっていき最後には顔を真っ青にして僕を…いや僕ではない誰かに怯えている?
「……ア、ルディス、様?」
アルディス…?
碑文の中の王様?の名前だったような…。
「様はいらない。お前たちが敬う相手はもういない。」
静かな声だった。
だが、その声に圧があった。
後ろの部下二人が、本能的に後退していた。
「……な、なぜ。記憶が戻りきっていないはずでは…っ。」
「…戻りきっていないね。ただ、意識の表層に出てくる程度は出来るようにはなったようだね。」
アルディス?の声色で、僕の口が言った。
「……お前たちの8年間は無駄ではなかった。現に僕を見つけたわけなのだから。」
一歩、前へ踏み出した。
西条が、後退した。
「でも、君たちは罪を犯したね?」
西条の手が、動いた。
「……罪?知りませんね。それに、記憶が表に出ているなら、記憶が戻り切っていないのなら、今ここで処分するまでです。昔の貴方様のようには戦えないのでしょう?」
「……僕はね、全てを見捨てて逃げた存在だ…。でもね、関係のない人々を巻き込んでおいて――」
話の途中で西条とその部下と思わしき人たちが一斉に僕に向かって襲ってきた。
「逃げ出すほど臆病ではないつもりだよ。」
その声は、とても落ち着いており声は同じはずなのに威厳さを感じる。
それは一瞬の出来事だった。
西条達が所持していた武器が目を放していなかったはずなのに…全て壊されていた。
今の一瞬に何がっ…。
――少しの間、身体を借りさせてもらうね。
――僕。
えっ?
――出てきちゃった♥️
――キモイ。
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