おバカ貴族と元許嫁
「お前が生きていると知って、一番がっかりしているのは、恐らく私だろうな」
シソーラ侯爵邸、エディスの書斎。
豪奢な大理石のテーブルを挟み、エディス・シソーラは鼻で笑いながら、平然と残酷な言葉を彼に投げかけた。
ガリ、ガリ……と鈍い金属音が静寂を削る。それはカサルの首に嵌められたミスリル製の首輪と、そこから伸びる鎖が、エディスの手元で弄ばれている音だった。
当のカサルは、彼女の正面で右腕をテーブルにつき、エディスの巨大な掌に自身の拳を包み込まれていた。腕相撲――とは名ばかりの、一方的な蹂躙である。二メートルを超えるエディスの体躯に対し、カサルの腕はあまりに細く、今にも折れそうな小枝のようだった。
「なぜ喋らない? お喋りなパピー」
エディスが指先にわずかに力を込めると、カサルの手首がミシミシと悲鳴を上げた。彼女は獲物を観察する猛禽のように目を細め、逃げ場のないカサルの苦悶を愉しんでいる。
カサルは表情を殺し、乱れた金髪を払って、冷淡な視線をエディスへ返した。魔力を封じる首輪の重みが、彼が今「飼い犬」の立場にあることを冷酷に突きつけてくる。
「沈黙は金だ」
掠れた声でカサルは手首を捻り、自身の懐へ巻き込んで防御を試みるが、その微かな抵抗が、かえってエディスの嗜虐心に油を注いだ。
「雄弁を語れば銀にはなると語ったナルシシストをお前は覚えているか、カサル」
彼女は首輪のリードをぐいと引き寄せ、テーブルに突っ伏しそうになるカサルの顔を至近距離まで引きずり寄せた。
「生憎と記憶力は悪い方だ、ミス・エディス」
カサルが言い返した瞬間、ドォン! と衝撃音が書斎に響いた。エディスがカサルの右手を、羽虫でも潰すかのような軽やかさでテーブルに叩きつけたのだ。
これで、エディスの何度目かの勝利が決まる。
彼女の白い競技用グローブは、叩きつけられた衝撃で裂けたカサルの皮膚から流れる鮮血で、無残に赤く染まっていた。
「お前のせいで、また私は友人を失ったんだぞ。少しは反省したらどうだ?」
エディスが勝ち誇るように手を離すと、カサルは感覚を失った右手をさすりながら、忌々しげに顔を歪めた。
「誰が捕まった?」
「男爵家のレテシア嬢だ」
エディスが口にした名に、カサルは思考の断片を手繰り寄せる。
「ああ……よくお茶会に顔を出していた、貴族の中でも努力家で有名なあの子か。聡い女だったが、あまり馬が合わなかったな」
カサルは消えかけていた彼女の面影を思い出しながら、エディスの苛烈な非難に耳を傾ける。
「お前の『貴族は怠惰であるべき』という姿勢は、今も変わっていないようだな」
「そこまでは言っていない。ただ……努力をせず手に入れられるもので満足しろ、とは言ったが。それで? そのレテシア嬢が何をした?」
「貴族ランキングの違法操作。お前が以前、お茶会で話していた内容だ」
エディスの言葉に、カサルの脳裏にあの日の光景が鮮やかに蘇った。
貴族ランキング。資産、影響力、生産力の各項目を評価し、その合計で貴族の模範を決めるという、王国の新制度。カサルは当時、その制度がいかに穴だらけであるかを、紅茶を啜りながら嘲笑していたのだ。
特に彼が問題視したのは「資産」の評価基準だった。
『調査員が一度来た領地は、その資産を別の領地に貸し出せばいい。そうすれば、実際には何もしなくても、紙の上だけで莫大な恩を売ることが可能だ』
カサルがそう笑うと、当時の令嬢たちは「あら、なんてこと」と扇子で口元を隠し、嬌声を上げていたものだ。
「あれはただ、仕組みの杜撰さを指摘しただけだ。推奨した覚えはないぞ」
「だが、実際にそれを実行したレテシア嬢は、初の男爵位で資産三星を記録した。国は彼女の不正を暴くことができなかった。私の父も、法務省の威信をかけて調査に乗り出したが、空振りに終わったよ」
エディスは再びカサルの手を取り、今度は指先を一本ずつ、万力のような力で握りしめた。
「国は、彼女が悪だとは分かっていても、それを罰する法が未整備だったせいで手が出せなかった。お前がその『穴』を教えたせいでな」
「……風紀委員長として、友人を止められなかった自分を悔いているのか?」
カサルの言葉に、エディスの眉間が険しく歪む。彼女は立ち上がり、繋がれた鎖を力任せに引いた。カサルは椅子から引きずり出され、石畳に膝をつく。
「……結局、一番重い王命によって彼女は逮捕された。見せしめだよ。法が追いつく前に、彼女はお前の毒に当てられて破滅したんだ」
「悲しい話だ。だが、本当に悪かったのはレテシア嬢だろう。我のせいではない」
カサルの突き放すような物言いに、エディスの瞳に激しい怒火が宿る。
「そんな我が、世界を裏から操る悪の中枢のような言い方をされるのは心外だな。発明家は全員悪人か?」
「お前は『これが悪い』と欠陥を指摘するだけではない。問い詰められれば、『こう逃げろ』という脱出口までセットで語るだろうが! お前の言葉には、凡人を狂わせる引力があるのだ」
カサルは退屈そうに、隠しきれない欠伸を噛み殺した。
エディスはそれを見逃さず、カサルの胸倉を掴み上げ、壁際に叩きつけた。
「前々から、お前のその思想が気に入らんのだ。多くの人間が、馬鹿なお前の姿勢に感化され、道を誤っていった」
「ミス・エディス。このままでは、また以前と同じ不毛な言い争いになるぞ」
彼女とは、過去に数え切れないほど同じ問答を繰り返してきた。彼女の身の回りで不祥事が起きるたび、カサルはこうして首輪を嵌められ、矯正という名の説教を受ける羽目になる。
「以前は百歩譲って私の負けだと言ってやってもいい。だが今は違う。お前の考えを否定できるだけの経験を積んできた。お前の悪の思想は、私が叩き直してやる! 私こそが正義なのだ」
エディスの鼻息が荒い。
カサルは自分より遥かに高い位置にある彼女の顔を見上げ、重い溜息をついた。
「勝ち負けや、相手を悪だと決めつける思考そのものが危うい気がするが……。まぁいい、好きなだけ話せ」
「ククク……良い心がけだ。その前に腕が持てばいいがな」
再び大理石のテーブルにどっかと腕を構えるエディス。
興奮に昂る彼女のグローブからは、過剰な代謝によって陽炎のような熱気が立ちのぼっていた。
「……そろそろ腕相撲は止めないか? 我が不利すぎるだろう」
「じゃあ何をするというのだ? 鬼ごっこか? 剣術か? 体術でもいいぞ!」
ゴキゴキと首を鳴らすエディスは、久しぶりにカサルを「飼育」できる悦びに浸り、彼を徹底的に教育するつもりだった。そんな猛獣を前に、カサルは冷静に切り札を出す。
「お茶にしよう」
このまま続ければ、カサルの腕が物理的に砕けるのは明白だった。論戦に入る前に、彼女を一度「淑女」の土俵へ引き戻す必要がある。
「子爵である貴様が、侯爵の私をお茶に誘うだと? 身の丈を弁えろ」
だが、シソーラ侯爵令嬢にとって「お茶」とは特別な儀式だ。それは私的な休息ではなく、公的な『紅茶貴族』としての品格を試される戦場。一度その儀式が始まれば、現在のように暴力でカサルを弄ぶことは、彼女のプライドが許さなくなる。カサルもそこを突いた。
「だからといって、腕相撲で一方的に勝ち続けても楽しくはないだろう。ミス・エディス」
「いいや、もっと肉と肉をぶつけ合おう。駄犬」
品性とはかけ離れた熱情で上気するエディス。カサルは彼女の目をまっすぐ見つめ、最後の楔を打ち込んだ。
「……君の淹れた紅茶が、飲みたいんだ」
「……ッ」
紅茶貴族として、自分より爵位の低い男から、その技術を請われて応えないのは貴族の名折れだ。
エディスは忌々しげに舌打ちすると、カサルの首輪から伸びる鎖を短く巻き取った。本格的な「教育」――すなわち、優雅なる地獄の論戦を整えるべく、彼女はカサルを引き連れてバラ園へと向かった。
次回は口論編。
彼がお茶会で見せた天才の功罪とは。
ではまた(*'▽')ノシ




