その14 偽りの希望
浴槽の中に突っ立ったまま。
葉子の平板な呟きは、続く。
「わたしね。人は誰しも幸せになる権利があるとかって言葉は……
人を生かしながら殺す為にある言葉だと思ってる。
社会を存続させる為に、偉い人が考え出した偽りの希望。
だって、家でも外でも奴隷のように働き続けるわたしのような人間がたくさんいなきゃ、この国の社会は続かないでしょう?
こんな環境は本来なら、死んだほうがマシなレベル。本当ならすぐにでも死んだほうが、幸せになれる」
悠季は何も言えなかった。
これだけの絶望を、葉子は常に抱えていたのか。
笑顔を取り戻したように見えていても、葉子の中にはこれほどの絶望が今も隠れていたのか。
さっき、自分をここに連れてきたはずのベレトの声を思い出す。もしかしたらあいつが、この葉子を操っているんじゃないか――
一瞬そう考えたが、ベレトの気配はどこからも感じ取れない。
畜生――巧妙に気配を隠したか。
考えてみりゃ、あいつも俺と同じシーフだしな。しかも結構優秀な。
「なのに偉い人たちは、上からわたしたちを見下げて、死なせたらマズイから偽りの希望を見せ続ける。ニュースは勿論、本でもドラマでも映画でもアニメでも漫画でもゲームでも、ありとあらゆる手段を使って、わたしたちに生きろ、自殺するな、現実から逃げるなと言い続ける。
恋愛映画なんて特にそうだよね?
女を男の奴隷にする為に、愛なんて都合のいい言葉で飾り立てて」
そんな葉子の怨嗟を聞いているうちに――
悠季の瞼の裏に、ある光景が浮かびあがった。
宮殿のように豪華絢爛な装飾に彩られた、金色の部屋。
縁を金糸で縫われた紅の絨毯が敷かれ、その先には玉座にも似た豪勢な椅子が飾られている。椅子に嵌められたいくつもの宝石は、目が痛くなるほどギラギラ輝いている。
そこには一人の少女が座っていた――いや、座らされていた。
袖のふくらみも可愛らしく、コルセットできゅっと腰を引き締め、胸元が開いた純白のドレス。
だが――
細い手首に嵌められた幾つものきらびやかな腕輪は、全て椅子と繋がり、少女を拘束していた。
美しい腕輪も首輪も足輪も全て、少女を永遠に拘束する鎖にすぎなかった。
閉じられたその両目。
そのまなじりから滝のように流れるものは、涙ではなく、真っ赤な血液。
止まることのないその赤は、少女の純白のドレスの胸元を一気に染め上げていた。
やがてその部屋自体が、炎に包まれる。少女と共に――
血色を失った少女の唇が不意に開き、悠季に問いかけた。
葉子の声で。
「――ねぇ、悠季。分かる?
あなたがいなくなったら、わたし、こういう世界に戻っちゃうんだよ?」
劫火の光景と共に思い出されるのは、身体中を切り刻まれるような痛み。
徹底的な無力感と同時に、酷い頭痛までが呼び起こされてくる。
髪をかきむしり両手で目をふさいでも、激しい炎の紅はどこまでも脳裏に強く焼きついて離れない。
「あ……あうっ……!!」
眼前の葉子と、過去の少女の幻影。
その二つが、悠季の中で重なり合う。
あの時も――俺は結局、どこまでも、無力だった。
「もちろん、今の『天木葉子』だったら。
あなたと一緒にいる時の葉子だったら、そんな風に考えることはないよ?
でも――」
悠季の足元までもを侵食する黒カビ。
同時に、その心を捉えたまま離さない、炎の幻影。
――それでも。
それでも俺は、葉子を、絶望させるわけにはいかない。
葉子が決して絶望しなかったから、俺はここにいるんだ。
激痛に苦しみつつも、悠季はそっと葉子に片手を伸ばす。
カビで汚れた彼女の細い肩は、どこまでも頼りない。それでも倒れないように支えながら、悠季はそっと呟いた。
「……なぁ、葉子。
俺だったらこんなカビぐらい、術で一瞬でキレイにできるぜ?
それでなくても、今なら強力なカビ取り、たくさんあるだろ。
一人じゃ無理でも、掃除ぐらい一緒にしてやるよ」
今にも壊れそうな、いや既に壊れているかも知れない葉子を抱きしめながら、その耳元で精一杯優しく呟く悠季。
それでも彼女の目の色は、どろりと濁ったまま変わらない。
無感情に悠季をちらりと見ながら、ひび割れた唇で歌うように呟くだけだ。
「あなたはいつもそう言ってくれる。
でも、悠季。そんなあなただって――
偽りの希望、そのものでしょ?
わたしを騙して、世界には希望があると見せかけて、絶望に叩き落とす為の罠。
それがあなた」
あぁ――悠季は思わず呻いてしまった。
――俺は葉子を、ろくでもないモラハラから救えたと思っていた。
でも現実は違う。あのモラハラは、今でもこんな風に葉子の心の奥深くまで壊し続けていたんだ。
「その証拠に、いつかあなたは、いなくなる。
今、どれほどあなたが、わたしを大事にしてくれても。
わたしの目の前から、いつかあなたは、消えてしまう。
そうなれば――またすぐにこの黒は、世界中を覆いつくす」
俺がいなくなる? 葉子の前から?
何を根拠にそんな――
「だって悠季は異世界人。いずれは元の世界に戻っちゃうんでしょう?」
そんなことない。
実際、管理官には何度も確認した。望みさえすれば、異世界人でもこっちの世界に留まることも出来ると――家庭を築いたケースも複数あると。
しかしその言葉は何故か、喉元で強く押し込められてしまう。葉子の放つ、奇妙な威圧によって。
「そうでなくても、いずれ、悠季はいなくなる。
わたしに失望するか、わたし以外の誰かに心を奪われるか、もしくは――
わたしかあなたのどちらかが、命を失うことによって。
それは異世界人とか関係なく、普通に起こりうることでしょう?」
確かにそうかも知れない。人はいずれ寿命で死ぬ。どれほど絆を紡いでいる二人であっても、いつか必ず別れは訪れる。
――だけど。
悠季は思わず葉子の両肩をつかみ、強く揺さぶった。
何とか葉子の目の光を取り戻したくて。
「聞いてくれ、葉子。
少なくとも、俺は絶対に葉子を見捨てたりしない。俺が他の女に奪われる? そんな形でお前と別れてたまるかよ!
俺がどれほど駄目でも、お前は決して俺を見捨てなかっただろうが!!」
だが悠季の言葉にも、葉子の光は戻らない。
それどころか、その呟きには次第に怒りさえこもってくる。
「嘘……ぜんぶ、嘘。
あなたは嘘。偽りの希望、そのものだよ。
わたしをこの世にとどめるための。わたしを自殺させないための。
そこまでしてわたしを苦しめて、わたしをどうしたいの? あなたも、みんなも」
「葉子……」
駄目なのか。
俺がどれだけ言っても、届かないのか。
悠季の胸の中にまで、絶望が重くのしかかる。
再び脳裏をよぎる、炎の幻影。
「あなたがいなくなるとわたしがどうなるか、悠季は考えたこと、ある?
あなたがいなくなれば、わたしは何も出来ない女に戻ってしまうの。
あなたがいなくなれば、わたしは家に無理やり引きずり戻されて。
そして結局また――あいつらは、同じことを繰り返す」
「あいつら?」
「うちの親」
葉子の両親か――
毅の件は確かに、あの親たちにも責任の一端はあった。
しかし彼らもそのことは深く反省し、最終的には葉子に救いの手をさしのべたはずなのに。
父親は葉子に、土下座までしていたのに。
そんな悠季の戸惑いを悟ってか、葉子の口角がニタリと歪んだ。
「悠季は知らないかも知れないけど、あいつらの反省って、口ばかりだよ」




