その13 黒の未来
「ここは、真っ黒の世界。
真っ暗じゃなくて、真っ黒。これ大事だから、覚えておいて」
そう呟きながら、浴槽から起き上がってきたものは――
身体中、カビの汚れにまみれている女性。
葉子だとは思うが、実際の彼女よりも若干幼さが目立つ顔立ちだ。OLというより、少女と形容した方が正しいような。
服装は地味な無地のワンピースにエプロンだが、黒い髪は殆ど整えられておらず、腰まで伸びたまま。身体はやせ細り、顔色も不健康そのものだ。暗闇ですら分かる青白い肌。
何より実際と違うのは、眼光だ。現実で悠季を見る葉子の目は、いつも輝きに溢れていたが――
悠季にはすぐに分かった。
これは、魂を完全に殺された人間の目だ。昔なんか、こんな目をした人間をどれだけ見たか分からないが……
葉子がそんな、死臭を放つレベルの腐った目をしている。それだけでも、悠季の胸はずきりと痛んだ。
「よ……
葉子、なのか?」
悠季が思わず声をかけると、彼女は抑揚の全くない、小さな声でつぶやいた。
「そ。わたしも、葉子だよ。
みんなは、『闇の魔女』って呼んでる」
抑揚がないだけではない。その言動にはどこか、奇妙な幼さが感じられた。
彼女はのろのろと身体を起こす。浴槽に水は張られていないが、彼女の全身はカビと湿気で汚れていた。
その手にはスポンジと歯ブラシ、そして洗剤が見える。どれもカビで真っ黒だったが。
「何度掃除しても……カビはどんどん生えてくる。
あとからあとから、増えてくる。
わたしはそれを洗い流すために、ずっと、ここにいなきゃいけないの」
意味が分からない。
ここも、こんな汚れた浴室も、葉子の一部なのか?
だとしたら何故、こんな場所が生まれた?
そんな悠季の疑問を見透かしたように、彼女は答えた。
「まぁ、そうだよね。意味わかんないよね。
でも、ちょっと前までこのカビは、世界全てをずっと覆いつくしていたの」
「世界全て?
つまり、葉子の心全部を覆ってたってのか」
浴槽の中で、ふらりとよろける葉子。
思わず悠季は手を伸ばし、その上半身を抱きしめた。骨ばって妙に軽い半身を。
すると――
浴槽の底。葉子の素足のあたりに、何かが流れているのが見える。
水ではない。どろりとした、粘着質のもの。
それは葉子の足の間から流れていた。流れ続けていた。
そして、それだけが――
黒一色を占める視界の中で、唯一と言ってもいい、赤。
決して鮮やかではなく、どろりと濁り、腐りきった赤。
ただその赤さえも、床を覆う黒に触れた途端に黒に染まり、色を失っていく。
じっとその赤を凝視するしかない悠季に、葉子――闇の魔女は、そっと呟いた。
恐らく笑っているつもりなのだろうが、唇の端が少し引きつっただけで全く笑えていない。そんな表情で。
「あなたが見た地下道も、あの森も、空も、全部。
ちょっと前まで、このカビに覆われ尽くしていた。
だから、前はわたしがこの世界のおひめさまみたいなものだったの。他の魔女たちはみんな力を失うか、狂うかしてしまったから。
――だからって、全然しあわせなんかじゃ、なかったけど」
ちょっと前まで?
嫌な予感がして、悠季は思わず震えた。
「そう……あなたが来てからだよ、悠季。
あなたが来て、あいつを追い払ってくれたから。
わたしの力は、とっても小さくなっちゃった」
「あいつ?」
「我岳毅」
超絶久しぶりに耳にする名前だ。
葉子の元カレ。そして、散々葉子をモラハラとDVで苦しめた男。
あの野郎、まだこんな形で葉子の心に巣食ってやがったのか。
そんな悠季に、淡々と呟き続ける『闇の魔女』。
だがその内容は、あまりにも重かった。
「あいつと一緒にいる時、わたしの心っていつも、こんな感じだった。
どんなに洗ってもカビが延々と増殖していく、狭くて湿った場所。
それが、わたしの未来なんだって……ずっと思ってた」
悠季は思い出す。
毅と過ごしていた時の、葉子の絶望的な表情を。
その時も――葉子は、こんな風に死んだ目をしていなかったか。
「悠季も覚えてるでしょ?
わたしの家、貧乏で借金抱えてたし。わたしもろくに稼げないダメOLだったから……
医学生の毅とお付き合いを始めた途端、親が滅茶苦茶その気になっちゃって。
毅の本質も、自分の気持ちさえも分からない状態のまま、結婚まで話が飛んでいった」
そうだったよな。
葉子の両親だけであれよあれよと話が盛り上がった挙句、葉子は後に引けず、そのまま毅と付き合わざるを得なくなったんだっけ。
毅がどんどんモラハラ野郎の本性をさらけ出していくのに、親は何も気づかずに。
「わたしは自立できない、ろくに稼げない、頭も悪い女だから。
そういう女はお金持ちの家にもらわれてやっていくしか、幸せになる方法はないって……
毅と付き合っていたころは、親から散々そう言われてた。
でもね……もしあのまま、毅と生活を続けてたらさ。
わたし、こういう生活を強要されるの、分かってたんだよね」
悠季は何となく理解した。
ここは、毅と付き合っていた当時葉子が考えた未来、そのものだ。
あの男ともし結婚でもすれば――
葉子はそれこそ死ぬまで、好きなゲームも本もあいつに切り捨てられ、家でも外でも働かされたことだろう。ちょうど俺と出会った頃の葉子が、そうだったように。
毅の性格からして、葉子が奴の実家で姑たちと一緒に暮らすことも当然ありえただろうし。そうなれば、モラハラ野郎が毅のみならず、二人三人に増えることも十分考えられる。
当時の葉子はそこまで予測してしまっていたのだろう。だからこそ――
こんなカビだらけの世界が、生まれた。
「おかしいでしょう?
純白のウェディングドレスに包まれて華やかな式を挙げる花嫁の未来が……
真っ黒に汚れた、闇だなんて。
ううん、闇なんて言葉じゃ軽すぎる。
闇ってのは、真っ暗なもの。そこに何があるのか分からない、とてつもない恐怖があるかも知れないけど、光を当てるとそこには鮮やかな色があるのかも知れない。
でも、わたしの未来は違うの」
気がつくと葉子の素足、爪先まで黒カビが繁殖していた。
タイルの間に蠢く汚れが、タイル表面をヴェールのように覆っていく。湿った窓の周りを汚すカビが一気に増えだし、窓を覆い隠す。
「最初から色も光も何もなくて、真っ黒が決定づけられている。それがここ。わたしの未来。
闇じゃない。ただ、真っ黒に塗り込められた黒。
狭い、湿った場所をいっぱいに覆い尽くした黒い汚濁。その中に閉じ込められるのは、わたし。
延々とその果てしない汚れを落とそうとしても全て徒労で、そのうちわたしの皮膚も、内臓も、顔も、脳も、骨までも次々に汚染されて、わたしはこの中で死んでいく」
蛇口から噴出する、茶色い油の塊。
汚れた浴槽をどんどん流れていく、葉子の血。
「肉体が疲労し、精神が叩きのめされ、やっと幸せをつかんだと思ったら――
来たのは、こんな場所。
家族をつくり、血を継いでいく。その名目のもとに、女が男とひとつになり、その果てに押し込められる場所――それが、ここ。
料理も掃除も洗濯も全てがダメだと言いまくられて、稼ぎが足りないと無理やり働きに出されてはその先でもミスしてバカにされて、自分の時間や大切なものなんか全部壊されて、寝る時間すら殆どなくて……
でも、それが当然とされる。それが世の中だって言われるのが、現実の結婚」
――そうだ。
俺の仲間たちだって……そんな風に死んでいった奴らが、どれだけいたか。
あの金持ちなら絶対に幸せになれるとか言われ、もらわれていった娘が……どれだけ酷い目に遭い、絶望して死んでいったか。




