その12 闇に閉ざされた「浴室」
さらに竜巻は勢いを増し、遂に轟音を立てながら部屋が崩壊した。
発動させた氷の盾に隠れつつ、何とか宙に浮きながら竜巻を防ぐ悠季。
土の魔女もちゃっかりその腕にすがりつき、暴れる「風の魔女」を眺めていた。何故か余裕の表情で。
「こんなモノを外に出したら、『天木葉子』はすぐに壊れてしまう。
だから私はいつもこうやって、彼女たちを抑えてるの。
時々、森自体がめちゃめちゃになっちゃうこともあるけど――
でも、私が何とかしてる」
「何とかって……
うわっ!?」
どうにかして風を防ごうとしているうちに、いつのまにか森じゅうが暴風に包まれかかっていた。
逃げまどう住民たち。荒れ狂う木々。舞い上がる木の葉。
中には竜巻で空高く吹き飛ばされてしまう住民さえいた。
ついさっきまで穏やかだった森が、阿鼻叫喚の嵐に包まれる。
――こんなものを。
こんな感情を、葉子はずっと抱えているのか。
この『風の魔女』だけじゃない。さっきの『水の魔女』も、恐ろしく重い感情を抱え込んでいた。
悠季はふと、すぐそばにいる土の魔女の横顔を見つめてしまった。
いつものこと。何でもないこと。でも、抑えなければならないもの。
荒れ狂う森を目の前にしても、彼女の困ったような微笑みは変わらない。
そう――『石の巫女』のあだ名、そのままに。
しかも彼女がふりかざしたこん棒、その先からあふれ出る癒しの光によって、暴風が少しずつおさまっている。
恐らく水の魔女や風の魔女といった魔女たちは、葉子の奥深くに隠された感情、そのものだ。
葉子が普段決して出さない、出せない感情。それが魔女の形となって心に根付いている。
この感情を直接表に出せば、葉子自身が壊れてしまう。だからこの「土の魔女」が、常に彼女たちを抑えているのだ。
いわば、葉子の心の安全装置として。
そこまでは悠季にも推測できた。
しかし、ならば土の魔女が目指す『光の聖女』とは何なのか?
そして何より――
地下道で感じた、葉子以外の気配。
あいつは今、どこにいる? ――ベレトは。
さっきは水の魔女を乗っ取っているように思えた。何の因果かは分からないが、あいつは葉子の中にいて、葉子をいいように操作して……
そこまで考えた時、悠季の脳裏に直接、声が響いた。
どれだけ耳をふさいでも、無理やり頭に呼びかけてくる声が。
――ご明察だね、イーグル。
でも君には、もうちょっと見てもらいたいものがあるんだ。
こっちに来てくれよ。
「なっ……ベレト!?」
そう叫んだ時にはもう、悠季は背後から強引にスーツの襟を掴まれていた。
殆ど気配を感じさせず、突拍子もなく悠季のすぐ後ろに出現し、彼を掴んだのは――
赤黒く染まりきり、尖った爪を持つ、骨ばった手首。
それも手首だけが不自然に宙に浮かび、二の腕から後ろの部分が全くない。
何もないはずの空間に突然漆黒の穴が出現し、そこから手首だけが飛び出している。そんな状態だ。
だがそれに戸惑う暇すらなく、背後から首根っこを掴まれた悠季は強引に引っ張られていく。手首が出現した、ブラックホールとでも言うべき暗黒の穴へ。
その空間からはどういうわけか、奇妙なカビ臭さと共に生ぬるい湿気が流れてきた。
――仕方ねぇ。
葉子。お前がそう望むなら、俺はどこにでも行ってやろうじゃねぇか。
そこに何があったとしても!
「悠季!?
ちょっと、待っ……!」
土の魔女の悲鳴が聞こえたが、悠季にはどうすることも出来ない。
土の魔女と、風の魔女。際限なきその争いの行く末を、見守ることすら出来ないまま――
悠季は闇の中へと吸い込まれていった。
******
漆黒の空間に呑まれ、一瞬意識が遠くなったが――
悠季はすぐに目を覚ました。強い臭いに、鼻腔を刺激されて。
頭を振りながら周囲を確認してみたが、何も見えない。
目つぶしの術でもかけられたかと思ったが、そうではないとすぐに分かった。何故なら、自分の手も指も、はっきり見えたから。
尻もちをついている場所に手を触れてみると、ぬるりとした気持ちの悪い感触が伝わってくる。
見ると、手のひらには粘り気のある真っ黒い何かがこびりついていた。
――そこは明かりの殆どない、ひたすらに真っ暗闇の空間。
注意深くあたりを見回してみたが、あの奇妙な手首の気配はもう、ない。
そのかわり周囲を満たしていたものは、強烈なカビ臭さ。
さっきの地下道も暗かったが、ここは比較にならないレベルの暗さだ。暗いというより、空間中が黒で塗りつぶされているといっても過言ではない。
そして何より、段違いの悪臭。臭さには慣れているはずの悠季ですら、思わず口を覆うほどの。
葉子の空想から作られたであろうさっきの地下道が、夢のように清浄な空間に思える。
そこまで考えて、悠季は気づいた。
なるほど――これは、葉子が『実際に感じたことのある』悪臭なんだ。
ぬるりとした黒を手で剥がしてみると、床には約3センチ四方の正方形のタイルがびっしり敷き詰められているのがわずかに見えた。タイルとタイルの間の溝を埋め尽くす黒。
明らかに異世界ではなく、葉子のいる現実に実際にあるものだ。ちょっと古めの建物のトイレなんかに、こういうタイルはよくある。
暗闇に目が慣れてくると、次第に周囲の様子も分かってきた――
ここは多分、浴室だ。
視線の先には浴槽らしきものも見えるし、蛇口とシャワーからぽたぽた水が落ちる音も聞こえる。
しかし、その場にある全てのものは黒カビに覆われていた。蛇口はさびつき、シャワーヘッドは勿論、ホース部分までカビが侵食している。
シャワーのそばに放置されている、いくつかの黒い塊は――よくよく見るとシャンプーとボディソープのボトルだった。石鹸置きも、置かれた石鹸も勿論真っ黒。
排水口には黒か灰色かも分からない髪の毛がぐしゃぐしゃと固まって溢れかえり、水の流れをせき止めている。そのおかげで、悠季が座っている腰のあたりまでどろどろとした汚水が溢れていた。
この汚さは――
多分、さっきの地下道の方が百倍マシだろう。臭いと湿気で息が詰まりそうになる。悪臭の中には何故か、血の生臭さまでが混じっている気がした。
水の魔女がいた地下道は妙に綺麗だったし、土の魔女たちがいた森も夢のように明るく、鮮やかな世界だった。
しかしここは――
上を見上げてみても、カビだらけの小さな窓しか見えない。その窓の外すら光はなく、真っ黒の世界。
浴室ならば、天井に換気口はないか。そう思って悠季はさらに目をこらしたが、換気口さえも黒カビに覆われ尽くし、ろくに空気の流れがないようだ。
天井までもが点々と黒カビのシミに侵食され、しかもそのカビはぞわぞわと虫のように蠢いているように見える。
背後を振り返る。摺りガラスで出来たドアがあったが、ガラス全面がカビで覆われて外の様子は全く分からない。試しに把手に手を伸ばしてみたが、カビでぬるりと手が滑った上、把手自体がろくに動かなかった。閉じ込められている。
これも――
こんなカビだらけの世界も、葉子の一部なのか。
悠季がしばし茫然としていると。
「……こんなところまで、来たんだね」
浴槽の中から、声がした。
掠れたような、葉子の声が。




