その1 史上最大の「修羅場」
あぁ……
やってしまった。
悠季が来てくれてからは、もうこんなミスをすることなんてないと思っていたのに。
「どうして、何も聞かずに勝手に行動したんですか!?」
ミーティングルームに呼び出された私の前で、田中君は思いきりバンと机を叩く。
一部始終を聞いた悠季も、さすがに今回ばかりは私を庇えないのか――
じっと唇を嚙みながら、私と田中君を交互に見据えていた。
田中君の怒鳴り声。
「天木さん。分かってます?
本来なら今日通るはずの書類を、貴方は、一日以上遅らせたんですよ!?」
「……すみませんでした」
蚊の鳴くような声で、私はひたすらに頭を下げるしかなかった。
***
事が起こったのはたまたま、悠季が午前中、次元管理局に出かけていて不在だった時だった。
その日は一カ月の中でもかなり忙しい日で、上司も先輩たちも自分の仕事にかかりっきり。
だから、分からないことがあっても質問しづらかったというのもあったけど……
仕方なかった面もあるとはいえ、完全に100%、私が悪い。
一体何が起こったのかというと――
午前中、私は田中君と仕事をしていた。
年齢は下でも、仕事上は大先輩たる田中君。だから私のチェックした書類を、田中君が再度チェックするという形で一緒に仕事をしていたのだけど。
やっぱりチェック中に分からないところが出てきたから、彼に質問したところ。
「保留にして、チェックOKです」
という、どっちなんだかよく分からない回答が返ってきた。しかも小声の超早口。
このままチェックOKにしていいのか、保留にするべきなのか――
いつもだったら聞き返していたけど、あいにくこの日は全員が非常に多忙。
田中君も私に答えたきり、すぐに別の電話に出てしまった。
さらに言うと、時刻はもうすぐ12時を回ろうとしていた。
12時になると、その日OKを出せる書類の締め切りが過ぎてしまう。機械での処理なので、1秒でも遅れたらアウトだ。
つまり、今日通せるはずの書類が明日以降でなければ通らない……ということになってしまう。
もう一つ言うと、書類を保留にした場合、OKを出せるのは自動的に明日以降になってしまう。
本来なら今日通せるはずの書類が明日以降にずれこむのは、この部署では致命的なミスと言われている。それだけ顧客や営業への対応が遅延するということでもあるから。
だからといって、もしこの書類に不備が残っていて、本来保留にすべきものだったのに通してしまったら――
不備が解消されないままの書類が通ってしまうことになる。
それゆえ、ここでの選択は非常に危険極まりないものだ。
しかもここで使用する入力システムは、OKか保留かを一度選択したら最後、覆すことが出来ない。
パソコンのキーひとつ叩いただけで、全てが決まってしまう。セーブデータをロード? 出来るわけがないでしょう。
わが社独特のこの、やたら融通がきかないオンラインシステム自体、社員の評判はすこぶる最悪で。
悠季も散々文句を言っていたが、今の今まで殆ど変化らしい変化はなかった。沙織さんの話によると、10年以上もろくな改修がなされていないらしい。
悠季は言ってたっけ――このシステム自体が、会社の体質そのものだって。
いや、システムのせいにしても仕方がない。
とにかく、その時の私は――
焦りのあまり、田中君の言葉を再確認せず、書類を保留にしてしまった。
その直後、書類が保留にされたことに気づいた田中君は思わず叫び声をあげ、私を呼び――
悠季が戻ってきた今、ミーティングルームでの修羅場に至る。
***
「ちょっと待てよ」
不意に悠季が口を挟む。
田中君はじろりと彼を見上げた。悠季の身長もそこまで高くはないが、田中君はさらに小さい。
「さっき、葉子から話聞いたけどさ。
田中。お前、OKか保留かよく分からない答えしたんだって?
葉子は、『保留にして、OKしてください』ってお前に言われたらしいけど」
そんな悠季の言葉に、田中君はギロリと私に目を剥いた。
「言ってませんよ。
『データを僕に回せるようにしてOKしてください』という意味のことは言いましたけどね。
念のため、データを再確認したかったので」
あぁ……言われてみれば、そんな言葉だったかも知れない。
私も記憶があいまいで、よく分からない。
せめて悠季がその場にいてくれたなら、こんな聞き違いもなかったかも知れないのに。
悠季も確かめるように私を見たが、私はといえば――とても顔を上げられない。
田中君はさらに言う。
「もし、僕の言葉がその場で分からなかったとしても。
だったら何故、その後、確認しなかったんです?!」
一言一言に怒気を交える田中君。
彼の言葉がいちいち正論すぎて、何にも言い返せない。
それでも悠季は私をきちんと見ながら、聞いてくれた。
「葉子。お前、言ってたよな。
田中がその後すぐ電話に出ちまったから、聞けなかったって」
そう。時間は迫っていたし、田中君の電話はいつ終わるか分からない。
さらに言うと、今やっている業務は他のチームメンバーがやっている仕事と微妙に種類が違うので、田中君以外の先輩や上司にも聞けない。
二重にも三重にもミス要因はあったけれど――
「それでも」と、田中君は言い放った。
「天木さんの案件がOKになったか気になったから、僕は早めに電話を切り上げました。勿論、締め切り時刻前にです。
そうしたらもう、案件が保留になっていたんです。OKではなく、保留に!
天木さん。どうして僕が電話を終えるまで、待てなかったんですっ!?」
私の眼前でもう一度、机を叩く田中君。
その音があまりに大きくて、思わず全身が硬直した。
同時に、私の隣に座っていた悠季も――
腕組みしたまま、思わず天井を見上げていた。
その唇から漏れたのは、重いため息。
あぁ――
これはもう、悠季でさえもお手上げってことか。
そう思った瞬間、心の奥底で何かが破裂したような気がした。
膨らみすぎた風船が、パァンと音をたてて弾けたような。
そんな私に追い打ちをかけるように、田中君は吐き捨てる。
「リーダーから言われてると思いますが。
天木さん。今回のインシデント報告を書くまで、通常業務に戻らないでください。
後は僕がやっておきますので」
そう言うが早いか、田中君はそのままミーティングルームから足早に出て行ってしまった。
後に残されたのは――
膨大な項目のオペレーショナルリスク報告書と、天井を見上げたままの悠季と、逆に俯いたままの私だった。




