その32 二人で行けば、きっと
風のようにアガタが去ってしまってから、ふと振り返ると。
悠季はとっくに目を覚まし、じっと葉子を見つめていた。
窓の外はいつの間にか夕闇が迫り、病室全体が茜色に染まりつつある。
紅の光を背にして、悠季のアメジスト色の瞳は、一層強く煌めいていた。
包帯に覆われたはずの右眼までも、ガーゼの奥で輝いている気さえする。
「あ……!
ご、ごめんね、悠季。
アガタさん、もう、行っちゃって……」
「……そっか。
ま、顔合わせても、また口喧嘩になるだけだしな。
だからあいつも、さっさとトンズラしたんだろ」
そう呟きながら悠季は身を起こしかけたが、やはり身体中痛むのか。
すぐに苦しげに呻いて、ベッドに倒れてしまう。
ギプスをつけたままの左腕も、包帯だらけの身体も、痛々しい。
葉子は慌ててそばに駆け寄り、その肩をそっと抑えた。
「無理に動いちゃ駄目だってば。
看護師さんも言ってたでしょ、あの火傷から助かったのは奇跡みたいなものだって」
「……分かってるよ」
少し膨れながらも、おとなしく横になる悠季。
葉子はふと思い立ち――
彼の枕元、そのすぐそばに、静かに腰を下ろした。
「な……なんなら、悠季。
私の……ここ。枕にしても……いいよ?」
「えっ」
真っ赤になりつつもそう言いながら、葉子は自分の膝を指し示した。
何となく、そうしたい。そうしてみたい。その衝動に、耐えきれなかった。
悠季はその眼を丸くしながらも、意外と素直に――
頭をそっと、葉子の膝に預けた。彼女の方に顔を向ける形で。
栗色の髪の柔らかな感触が、太もものあたりを撫ぜる。
その微かな吐息が、薄手の病院着を通して葉子の肋骨のあたりにかかり、どうしても心音が高まる。
細く引き締まった首筋が、夕陽の中で綺麗な曲線を描いていた。
胸元まで垂れ下がった葉子の黒髪。
その先に結われたシュシュを見つめながら、悠季はそっと呟いた。
「このシュシュ……今でも、つけてるんだな。
すまねぇ。俺の血で、汚しちまって」
葉子は優しく首を振る。
頭の動きに合わせて、シュシュも軽やかに揺れた。
「ううん。
悠季のいない間も、このプレゼントがずっと、私を守ってくれたから。
これがあったから私、礼野先輩にも言いたいこと、言えたんだよ?」
「へ? あ、あの礼野に?
何だってまた、そんなこと……」
「地震の時も、ずっとこれが私を守ってくれたと思ってる。
悠季の血が、私を守ってくれてる。そう思えたから、私は何でも出来るような気がしたの」
呟きながら葉子は、悠季の額にかかった前髪を、静かに撫ぜた。
撫ぜながら、尋ねてみる。
「ねぇ、悠季。
さっきの、アガタさんの話。もしかして、聞こえてた?」
葉子の膝の上で、こくりと頷く悠季。
「途中から、だけどな。
全くあいつは……無駄にお喋りなところ、ホント変わんねぇんだから」
「……あの」
ベレト君って、どういう存在だったの。
そう尋ねたかったが、どうしてもその問いは葉子の口からは出てこない。
それだけで、目の前の悠季が壊れてしまいそうな気がして――
しかし。
「……ベレトはさ。
確かに、俺の親友だった」
意外にも切り出したのは、悠季の方だった。
そっと葉子の膝に顔を埋めながら、消え入るような声で呟く。
「……俺が、殺したようなもんだった」
そんな悠季の言葉に、葉子は何も言えない。
移動式ベッドが走る音が、廊下からガラガラと響いてくる。
「ゲームでのシーフってさ。殺しだけはやらねぇなんて綺麗ごとほざいてる奴、多いけど。
実際、あっちの世界の盗賊なんてろくなもんじゃねぇよ。
必要なら自分の手を何度でも汚した。そうでなきゃ、仲間どころか自分さえ守れなかったから。
義賊だなんて、もて囃されたところでよ……
実態は身も心も血に汚れまくって、一番大事な親友すら守れなくて。
しまいには仲間もろとも焼き殺された、ただのろくでなしだ」
包帯だらけの右手で、いつしか葉子の病院着の裾を掴みながら。
その肩は、小刻みに震えだしていた。
「もういいよ、悠季。
無理して話すこと、ないから。
もう……」
「だから……葉子。
せめてお前だけは絶対に、あいつみたいなことにしたくなかった。
俺、お前に命をもらったようなもんだから。だから……つっ!!」
必死で言葉を継ごうとして、苦痛に咳き込む悠季。
そんな彼の背中を、葉子はそっと撫でていく。
「今回のことがあるまで……
悠季がいる限り、私は大丈夫と思ってた。
悠季がいる限り、私は変われる。強くなれるんだって。
でも――
悠季がいなくなって、初めて分かったの。
私は何も変わってなんかいなかった。むしろ、貴方がいないだけで――
それまでより、とんでもなく弱くなってしまった気がする」
そっと悠季の右手首を取る葉子。
包帯に覆われた肌の隙間からは、無数の古傷が微かに見える。どんな治癒術をかけても治らなかったらしきその傷は、夕陽の中で赤黒く浮かび上がっていた。
この傷だらけの手から、一体どれだけの命が零れ落ちたのだろう。
どれだけ守ろうとしても、この指の間から、大切なものは容赦なく流れ落ちていった。
「私、強くなりたい。
悠季を守れるぐらい、強くなりたい。初めてそう思った。
でも、私一人だけじゃ、そう簡単に強くはなれないの。
悠季なら分かるでしょ。一人だけでどんなに努力したって、出来ることなんてたかが知れてる。
だから……」
悠季の右手に、そっと自分の指を絡み合わせる。
傷に触れないように、出来るだけ柔らかく。
「一緒に、強くなろう。
ゲームじゃ何度倒れたって、貴方は諦めずに立ち上がってきて――
そして、とんでもなく強くなれた。
だから今度は、私が強くなる番。
そして……強くなるには、貴方が必要なの」
「そうだな。
お前がいなきゃ、俺だって絶対、あそこまで強くなれなかったもんな」
そう言いながら、悠季はそっと上半身を起こし。
痛みに顔をしかめながらも、にぃっと笑ってみせた。
いつもと変わらない、不敵な笑みを。
その笑顔に、葉子は心の底からほっとして、思わず悠季を抱きしめる。
「! お、おい……」
思わぬ葉子の行動に、顔を赤らめる悠季。
血の匂いの向こうから、微かにいつもの、ミントの香りが漂ってくる。
互いの心音が、互いの身体に強く、熱く、伝わっていく。
葉子が握りしめた手が、力強く握り返されていく。
気づいた時には、どこまでも深いアメジストの瞳が、まっすぐに葉子を見つめていた。
夕陽の色を反射して、紫の奥から不思議な翠色を放っている大きな瞳。
熱い吐息と、心音の高まりと共に、そのアメジストは急速に接近してくる。
――悠……
早鐘のように鳴る胸を抑えながら、葉子は静かに目を瞑った――
しかし。
「ほらー、あーんしなさい、あーん!!
ちゃんと食べなきゃ治らないでしょ!?」
「い、いや沙織さん、私には管理局から支給された栄養剤がありますんで、それさえあれば十分なんスよぉ!!」
突如隣室から響いた大声に。
葉子と悠季は、強制的に現実に引き戻されてしまった。
ムードを一瞬で完全崩壊させたその無遠慮な声は勿論、沙織とみなと。
「ごちゃごちゃ言わない、広瀬さんだって言ってたでしょ!? 栄養剤だけじゃなく普段の食事もちゃんとすれば、治りも早いんだって!
このあたしが、両手使えないあんたの為にやってんのよ、少しは感謝してよね?」
「も、ももも勿論感謝です、大感謝でございますぅ~!
しかし、しかしですよ沙織さん。あの……
その、納豆というヤツだけは勘弁して頂けませんかね? 私大抵のゲテモノは平気なんですが、それだけはマジ駄目で……うぅ、その匂いがっ……うっぷ」
「何言ってんの、血もキレイになるしカルシウムの吸収も促進する健康食品よ。
ちゃんと食べれば骨の治りだって早いし、身長だってちょっとは伸びるから、ほら!」
「ひ、ひぃいぃぃいい~!!!」
そんなみなとの悲鳴が響きわたり。
悠季も葉子も、一瞬呆然としていたが――
二人同時に吹き出してしまった。
痛みに顔を顰めつつも、悠季は悪戯っぽく微笑む。
「な、葉子。
退院したら、4人でパーティしねぇか。
お前の誕生日、台無しになっちまったし」
「そうだね」
「なんならこのまま、病院でパーティとしゃれこんでもいいぜ?
ちょうど俺らの部屋、隣同士だし。術で壁ぶち抜けば」
「それは駄目」
「……じょ、冗談だよ。そんな怖い顔すんなって!
とにかく、延期になった分、盛大に祝ってやるから。お前の誕生日!!」
さっきまでが嘘のように、朗らかな笑顔を取り戻す悠季。
子供のような無邪気な表情を見ながら、葉子は思う。
そう――
一人では、何も出来なくても。
二人で行けば、何か出来るかも知れない。
一方的に守られるだけじゃない。互いが互いを守り合うことが出来れば。
私の問題は、殆ど何も解決していないけれど。
悠季の過去も、ほぼ分からないままだけど。
それでも、二人で行けば――きっとその先に、何かが見えるはず。
第4章・Fin




