誘惑
その日の夜。妙な違和感を覚えて目を覚ました。自分が寝ている上に誰かがいる。
寝ぼけ眼をこすり、暗闇を見る。そこにいたのは見慣れぬ女の子……いや素顔の彼女をこの時初めて見たんだ。
「桐生……さん?」
メガネを外した桐生さんが四つん這いで僕に覆い被さるように迫っていた。
彼女の顔が間近まで近づく。普段とは違う妖艶な面立ちは暗がりの中でもはっきりとわかった。白くきめ細やかな素肌に、潤うように艶やかな唇。彼女にも魔術式の恩恵があるんだと痛感させられる。
ただどうして夜更けにこんなことをしているのか、僕の部屋にいるのかがわからない。眠気で思考がクリアにならない。
「ごめんね。驚かせちゃったよね」
「え、あ……うん」
「けどこうでもしないと太刀川くんは私のこと見てくれないから」
——「見てくれない」。
ずっと自分なりに気をかけているつもりだった。なるべくみんなと衝突しないように立ち回っているつもりだった。けど……僕は見ていないと、桐生さんは言う。
「私、ずっと太刀川くんのこと好きだったんだよ? ずっと遠くから見てて、憧れてた。私と同じはずなのに違うものを持っているあなたが私には輝いて見えたんだ」
僕のことが好きだった——と、目の前で突然愛の言葉を告げられた。
一体なにが起きているのかわからない。夢でも見ているのか。いや、夢ならどうして愛梨彩が出てこない? 僕の夢はいつも彼女を刺し殺す夢だったじゃないか。
桐生さんは僕に構わず想いの丈を綴り続ける。
「太刀川くんとこうやって近くで話せたの本当に楽しかった。アングラな話もオタクな話も……私のファンだって言ってくれたことも全部。それだけで魔女になってよかったかもって思えたくらいに」
「僕も……楽しかったよ。桐生さんと話すの」
不意に彼女の顔が耳元へと近づく。体と体が密着し、柔らかな感触が全身を包んでいく。まるで一方的に抱き締められているかのように。
「私、太刀川くんにならなにされてもいいよ。ねぇ太刀川くん、私じゃダメ? 私と一緒になろう?」
「それは……」
——「一緒になろう」。甘く、蠱惑的な囁きが耳朶を打つ。密着した相手の胸へと伝えんばかりの勢いで心臓が早鐘を打つ。
「私と交わろう、太刀川くん? 九条さんとの繋がりなんて絶ってさ、私と契約を交わしてよ。私ならあなたと直接繋がって強くすることができる。私は九条さんのように太刀川くんのことを冷たく扱ったりしないよ?」
頭から頰にかけて彼女の指がなめらかに滑っていく。愛おしく……狂おしいと言わんばかりに愛撫が続く。
「あなたが欲しいものならなんでもあげる。力も与えるし、欲望だって満たしてあげる。なんでも尽くす。私の全部、捧げてあげる。だから私のスレイヴに——私だけのものになって。私《《だけ》》を守って。太刀川くん、私……あなたなしじゃ生きていけない」
蕩かすような甘言が脳内を駆け巡り、艶然とした響きが神経をスパークさせる。
力が欲しい。
——当然だ。ソーマやアインに勝てるだけの力が欲しい。みすぼらしい自分とは決別したい。
自分の欲望を満たしたい。
——当然だ。自分の欲望を叶えてやりたい。桐生さんに従えば自分の欲望を叶えるショートカットができるかもしれない。
僕なしじゃ生きていけないなんて……これ以上の褒め言葉があるだろうか。僕は彼女に必要とされているんだ。
彼女を受け入れたい自分がいる。だけど——
「それはできない。僕は……愛梨彩のスレイヴだから。なにがあっても愛梨彩と一緒に戦うって決めたし、桐生さんだけを守ることは……できない」
僕は彼女をそっと突き放した。
桐生さんは優しいし、話していて楽しい人だ。趣味も合うし、きっと僕との相性は悪くないんだろう。つき合って、尽くしてもらって……なんていうのは正直夢がある話だと思う。
——けどそうじゃないんだ。僕が求めるものは。
力が欲しいのは大切なものを守るためだ。叶えたい欲望はみんなと笑い合える未来だ。そこを履き違えるわけにはいかない。
なにより僕にとっての相棒は愛梨彩だ。そして僕は愛梨彩が好きなんだ。
桐生さんと違って愛梨彩とは共通の趣味なんてないし、気難しい性格で相手をするのはかなりの気力を要する。素の性格は意地悪でいたずらっぽく、本当になんでこんな女の子が好きなんだろうって思う時だって稀にある。
けど、それでも彼女が好きだ。やや面倒臭い性格含めて好きなんだ。理屈なんかじゃなく……そばにいてあげたいと思う。彼女がありのままを晒せる居場所になってあげたいんだ。
だから彼女を裏切るようなマネは絶対にできない。誰彼は守れなくても彼女だけは絶対に守る……僕はそんな局地的ヒーローなんだ。自分はその意思を折らずに貫くと決めたから。君の告白を……受け入れるわけにはいかない。
「そっか……そうだよね。私、なにやってるんだろ」
「桐生さん?」
上体だけを起こし、僕の足の上にへたりこんだ彼女の顔を覗き見る。うつむいていて表情ははっきりとは見えないけど……やはりつらい思いをさせてしまっただろうか。
「いいの。太刀川くんの気持ち、知ってたから。ただ言っておきたかっただけ」
「あ、うん。気持ちに応えられなくてごめん」
「うん。じゃあね、太刀川くん」
部屋を出る彼女の背中を黙って見送った。
「じゃあね」。その言葉がひどく耳の内にこびりついて離れなかった。まるでお別れの挨拶かのようだった。
けれど、それを掻き消すようにまどろみが僕を襲う。ことの重大さに気づいたのは翌日の朝、起きた時だった。




