第八話『主人公は己に置き換えることで、孤独な老人の苦悩を察する』
事務所から歩いて5分の距離にある公園は、日本経済の繁栄を象徴する高層ビルが乱立するこの街の貴重な緑地であり、区民の憩いの場であった。
今日は平日ということもあって、利用者は小さな子供を連れた母親や、ご年配の夫婦の姿が目立つ。
そんな平和な公園に、何故この中年男の姿があるのか……。
「鳩の餌やりは禁止ですよ、後藤田さん。お巡りさんならルールを守りましょうね?」
「堅いことを言うなよ、神崎君。禁止されてない栗鼠の餌やりをしてたら寄ってきたのに、鳩ってだけで邪険にするのも可哀想じゃないか」
……後藤田善治。
千歳さんの証言から日本の警視総監であると判明し、午前中の内偵が不発に終わって帰宅したはずなのに、こちらの先回りをしたかのようなこの再会は本当にただの偶然だろうか……?
「お巡りさんも大変ですね。家庭に居場所がないばかりに休みの日も外で時間を潰さなきゃならないなんてね」
「そうなんだよね。なんせお巡りさんって、ちょっと大きな事件が起きたら何日も帰れなくなるなんてザラでさ。おかげで家庭内の地位が下がる一方だってみんな嘆いてる。悲しいよね」
うん、胡散臭い。一見それっぽい口実を用意してあるあたりが特に信用ならない。
「ま、そっちは今夜澪ちゃんと飲む予定があるんで、良かったらそのときに話を聞きますよ」
「おっ、嬉しいこと言ってくれるね。おじさん本気にしちゃうよ?」
「どうぞ、どうぞ。澪ちゃんの冷たい視線が気にならないなら、どうぞご自由に……というわけで、俺はこの辺りで失礼を」
「まぁ待ちなよ。僕も神崎君の仕事ぶりには興味があるから連れてってよ。代わりに今夜の支払いは多めに持つからさ」
あ、やっぱりそれが目的か。
そうなると確定かなと、コートのポケットからある物を取り出す。
「横から口を出さなきゃ構いませんが……ところでこれ、何だと思います?」
「……おいおい、盗聴器の携帯はさすがに見逃せないよ。悪用してないだろうね」
「まさか、これは俺がチンピラに絡まれたらすぐ助けに行くからと、千歳さんが持たせてくれたものです」
不意に再会してからの会話が筒抜けだと教えたことで、後藤田さんはかなり緊張した様子だったが、俺はすぐに笑って彼の誤解をといてやった。
「そんなに心配なさらずとも、こちらのボタンを押さなきゃ安全ですよ。俺も気分屋の千歳さんの予期せぬ突撃は防ぎたかったので、非常時のみ使わせてもらうということで納得してもらいました」
「……あまり驚かさないでくれよ。嫌な汗をかいちゃったじゃないか」
「すみません。ご存知のように盗聴器の所有、ないし設置は現行の法律に触れるものではありませんが、無断での使用は後藤田さんの言うようにあまり褒められたことではありませんからね。心当たりがあるなら早めに回収しておいてくださいね」
「何のことを言ってるのかわからないけど、お互いフェアに行こうか。娘の影にチラつく男が気になるからって、本人らに無断で盗み聞きってのは、やはり良くないことだからね」
ああ、そういう目的だったのか。
なるほどねえ。今まであまり気にしてなかったけど、そりゃあ内閣参与のお父様からしたら俺の素行は気になるだろうな。
と、なると千歳さんと出会ったその日に一夜を共にした件だけは、間違っても嗅ぎつけられるワケにゃいかんな……。
「……ところで、何でそう思ったのか後学のために聞かせてもらえる?」
「いいですよ。まずこちらの事務所に持参したお酒をお持ちでないにしては、酒臭くありませんでしたからね。あの後まっすぐ帰宅したのは間違いないと判断しました」
「まぁそうだよね。捨てるにゃ高い酒だし、外で飲めないなら持って帰るしかないよね」
「ええ、そして俺が千歳さんの依頼を受けた途端の先回りですからね。梅雨明けの蒸し暑い昼間の全力疾走はさぞかし堪えたことでしょうね」
「汗はきちんと拭いたつもりなんだが、やっぱり気付かれちゃうか」
「ま、最初は小さな違和感でしたが、引き止めるときに俺が探偵として動いていることに言及したのは迂闊でしたね。おかげで色々と繋がりましたよ」
「ああ、でも大したもんだよ。君、今からでも僕のコネでお巡りさんにならない? 待遇は保証するよ」
と、思わぬ勧誘にズッコケそうになる。
「……からかうつもりなら他の人をどうぞ」
「いやいや、本気だって。お巡りさんってさ、本当は警察官って言うんだけど、神崎君ほど警戒して察してくれる人は稀でさ。君なら警視総監は無理でも、定年までに警視正くらいは目指せると思うんだよね」
「仮にそうでも千歳さんの許可なく勝手なことはできませんよ。もし本気でそう仰ってるんでしたら、まずは彼女と交渉してください」
これ以上相手をしてられない──そう思った俺は、話を打ち切るつもりで彼の苦手の千歳さんの名前を出したんだが、このときばかりは悪手であったかもしれない。
「……君、千歳さんとどんな関係よ?」
探るようではなく、本気で不思議がってるその質問に、俺は余計なことを言いすぎたと後悔する。
……俺も最初は無視するつもりだった。
千歳さんとの関係など、当事者の俺にも掴みきれていないのだから。
それでも、後藤田さんが彼なりに千歳さんを案じていると言うのならば──。
「千歳さんは俺の恩人ですが、目の離せない子供でもありますね。俺があの子の下で探偵をやってるのは、たぶん、それが理由ですよ」
「ふぅん? 一夜の恩義を忘れずとは、これまた古風だねぇ……」
……おいおい。
「ま、いいんでない? 親父さんも過去のしれない男と関係を持ったことには気を揉んでるけど、彼もアメリカ帰りでリベラルなお人だし、娘の選んだ男にケチをつける気はないみたいだからさ」
これは、少し侮ったな。
たぶんあの辺に出入りする情報屋に、俺たちがホテルから出てくるところ見られたんだろうが、ここで潔癖を主張するのも藪蛇か。
「いいと言うなら、そろそろ仕事に向かわせてもらいますよ。もちろん横から口出ししないなら見てもらっても構いませんが」
「うん、お手並み拝見といかせてもらうが……君、今回はいつもより踏み込んだことを話してくれたけども、何か理由があるのかい?」
ああ、自覚はある。
迂闊だったが、後悔はしていない。
「そうですね。ちょっと考えさせられることがありまして」
「それって僕の発言から?」
「ええ、おかげで色々と繋がりました。柴崎さんがどうして偶に姿を消すのか」
「へえ? 君はどう思ったんだい」
その質問に答えるのは簡単だったが、俺はあえてそれを避けた。公園内の整備された歩道を歩きながら口にしたのは別のことだった。
「ところで後藤田さん。俺が頑張れば頑張るほどみんな幸せになれるから、相談くらいには乗ってくれるとのことでしたが」
「ああ、確かにそう言ったね。柴崎さんに関係した相談かな」
「はい。講師役を探している将棋教室のようなものに心当たりがあるなら、ぜひ教えてもらいたいと思いまして」
「そりゃあ、羽生さんのおかげで最近はえらい人気だしね。探せば幾らでもあると思うけど、なんでまた将棋教室を?」
「以前ね、柴崎さんを送り届けたとき、床の間に将棋の賞状が何枚も飾ってあったんですよ。娘さんも『お父さんは将棋だけは本当に強いんです』って笑ってましたが、あの人は一度もその話をしなかった。自慢する気もない。ただ、役目を終えた人間が、得意だったことまでしまい込んでしまった……もったいないと思いませんか?」
「ああ、それで将棋教室か。得意分野の仕事を与えることで、柴崎さんに自分はまだまだ現役って自信を取り戻させようってわけかい」
「もちろん、狙いはそれだけじゃありません。実は後藤田さんが言ってた、お巡りさんは家庭に居場所がないって話。あれ、妙に引っかかったんですよ」
「……言っとくけど、みんがみんなそうじゃないからね? そう思い込んでる人たちが一定数いるってだけで」
「ええ、そこなんですよ。柴崎さんも家庭に居場所がないわけじゃない。娘さんは自宅に送り届けるたびに頭を下げて謝ってきました。でも柴崎さんは、一度も『悪かった』とは言わなかった」
「ふぅん……でも開き直ったわけじゃないんでしょ?」
「はい。柴崎さんは謝る代わりに、『また迷惑をかけた』って、寂しそうに笑うんですよ。あれは家族に申し訳ないと思ってる人の顔です。だからあの人に必要なのは説諭じゃない。自分はここに居ていいんだと納得できる居場所なんです」
俺はそれ以上答えず、不思議がる後藤田さんと連れ立ってあの場所を目指した。
今は誰にも打ち明けられない孤独に苛まれる男性が、若き日に家族とよく通ったというちびっこ広場に──。
「こんにちは、柴崎さん」
「おや、神崎さんか……参ったね。フラッと居なくなったつもりはないんだが、また娘に言われて私を探してたのかな?」
「いえいえ、本日は柴崎さんに提案したいことがありまして」
「うん? あとは醜く老いさらばえて死ぬだけの私にかい?」
「ええ、実はこちらの家庭に居場所のないお巡りさんがヒントになりまして、柴崎さんの第二の人生を応援したいと思いまして」
ああ、そんな顔をしないでくださいよ。
その不安は柴崎さんだけのものじゃない。
でも俺だって千歳さんのおかげで変われたんだから、貴方ならきっと……。
それから数日後。
後藤田さんのコネで、日本将棋連盟の臨時職員として採用された柴崎さんの姿は地元の将棋教室にあった。
「うーん、矢倉は組み上がったけど、ここからどうやって攻めたらいいかわからないよ」
「うん、最初はそうだね。組み上がった陣形を崩すことと、攻めるために駒を失うことが怖いのは普通のことだよ。……だから発想を変えようか。駒は失っても攻める過程で補充できる。場合によっては大駒を失っても相手の陣形を崩せればお得だってね」
「せんせぇーい、持ち駒に歩が貯まっちゃったんだけど、これってどうやって使ったらいいのかなぁ?」
「歩は大駒の効いてるところに打ち込むのが特に強いよ。ほら、エミちゃんの飛車が効いてるこの先に歩を打ち込むと……」
ああ、熱心に子供達を指導する今の姿は亡き妻のとの約束を守ったあと、家族に迷惑をかける前に、ひっそりと消えることを無意識のうちに望んでいた孤独な老人にはとても見えず。
見学に来た俺の隣で、千歳さんは嬉しそうに何度も頷くのだった。
「すごいね柴崎さん。将棋が好きなのは知ってたけど、将棋教室の先生が務まるほどの腕前だとは思わなかったな」
「俺も後藤田さんのコネでゴリ押ししてもらおうと思いましたが、まさか向こうから歓迎するほどのアマチュア将棋界の名人だとは思いませんでしたよ」
「ね。これで柴崎さんの収入面の不安も解消。大手を振って一家の大黒柱に返り咲きっていうのが、おじさんの用意したシナリオなのかな」
「無論、それだけじゃありませんよ。結局ね、柴崎さんの生きづらさは誰でも抱えうるものなんですよ」
そう。究極的には「俺はここに居ていいのか」という不安こそが、柴崎さんを苛む孤独の正体だったんだ。
「例えば後藤田さんは家族とのコミュニケーションに悩みがちだって言ってましたね。普段は家を空けがちなのに、久しぶりの休日に厳格な父親を演じて後悔するって」
「娘さんの家族は柴崎さんを大事にしてるのに?」
「うん。それがかえって申し訳ないって思う心理もあるんですよ。柴崎さんの場合は長らく職人だったし、公的年金も雀の涙。自宅のローンは払い終わってるけど、それは今すぐ現金に替えられるものじゃない。貯金も乏しく、大きな病気をしなくても、そう遠くない日に介護の負担が生じるなら、家族の迷惑にならない今のうちに……そんな弱気に駆られることもあるんでしょうね」
ああ、俺にとっても他人事じゃない。
俺みたいな男が千歳さんの隣に居ていい筈がない。
そんな思考は何度も頭をよぎった
……と、俺がそんなことを考えていたからだろうか。
千歳さんが俺の左腕にガッチリと抱きついて意気込んできた。
「言っとくけど、おじさんのオムツを交換するのはわたしだから。今から覚悟しておいてよね」
「はは……」
俺の軽口はそこで途切れた。
ああ、なんて千歳さんらしい無慈悲な宣告。
どうやら俺の人生設計は彼女の中でもう決まってるらしい。
「……参ったな。俺は今の立場を楽しんでるんですがね」
「わたしもそうだよ。でも先のことなんて誰にもわからないじゃん。最近は澪ちゃんとも仲良しだし、わたしだけ置いてけぼりはヤだよ。だから……」
彼女は俺の袖を引いた。
抗いようのない力にお互いの顔が近づき、そして──。




