第三話『主人公は隠された真実を求めて、己の過去と向き合う』
怒ったら見境のない暴力亭主──。
そんな妻の証言に疑問を抱いた翌日の昼過ぎに、俺は近くの喫茶店で待ち合わせた千歳さんに昨夜の所感を伝えるのだった。
「──というワケでね。江夏恭介の態度は、奥さんに逃げられ昭和の亭主としてはあまりにも模範的すぎて、日常的に当たり散らしてたって美幸さんの証言は疑わしいんですよね」
「そうみたいだね。こっちでも情報を集めたんだけど、美幸さんの旦那さんってやっぱり評判いいよ。お父さんも歳があと10歳若かったら、わたしを嫁がせるところだって笑ってたし」
と、最後の瞬間だけ不機嫌になった千歳さんは、えらい勢いでパスタの皿を空にした。
やけ食いは良くないと、苦言を呈する勇気は俺にはない……。
「つまりあの夫婦にはどちらにも裏があり、それが故に美幸さんは交渉を望み、恭介さんは幕引きを急いでるってことかな」
「ふごいね。ほんにゃもごあれはかるんだ?」
「お願い。きちんと飲み込んでから話してもらえる?」
「ん、すごいね。そんなコトまで分かるんだ。さすがにミステリー作家の肩書は伊達じゃないね」
「どっちも俺は半人前だけどね。日頃から脳内で作中の登場人物を動かしてるからか、その手の整合性には敏感なんだよ」
俺は飲みかけのコーヒーを片手に、満更でもない気分で千歳さんに答えるが、やはり恭介さんの言動を思い返すと違和感が先に立つのだ。
いったいあの人は何を隠し、かつて熱愛した妻と別れてまで何を成そうとしているのか。それはさらなる調査の進展を待たなければ答えられないが、これだけは言える。
「どっちにしろ、今のまま別れたんじゃあの夫婦はきっと後悔する。だから俺たちが真実を見つけ出して届けなきゃならない」
「そうだね。ところでおじさんはホントにサンドイッチとコーヒーだけでいいの? ここの支払いはわたしが持つって言ってんだから、もっと頼めばいいのに」
「いや、おじさんぐらいの年齢になるとね、意外と省エネなのよ。だからありがとう。気持ちだけで十分だよ」
「でもおじさんが少食なのに、わたしだけバカスカ食べるの恥ずかしい。残念だけどカツカレーは諦めようかな」
まだ食うんかいと口にしかけるが、これは俺が悪かったのかもしれない。
千歳さんはまだまだ成長期だし、あの剛腕を思えば腹持ちも普通じゃないと思うべきだ。
「わかった。それじゃあ俺もカツカレー……は無理だけど、こっちのハヤシライスを頼んじゃおうかな」
「うん、それなら半分ずつ分け合っちゃおうか? 向こうのカップルみたいに……」
いや待って!
その提案は俺の心身に色々と致命的だから!!
「楽しみだね! ここは思い切ってアーンもしちゃおっか!?」
ちなみにこんな会話をしているのに、そうまばらでもない店内の客は誰も非難するような視線を向けてこない。
昭和から平成になり、テレビから露骨なお色気シーンが減りつつある時代であっても、高度成長期の恋愛模様は大変おおらかであった。
よって、俺は千歳さんのあからさまな好意になす術がなく、赤裸々な“アーン”を受け入れるより他になかったのである。
案の定、心身ともに強烈な胸焼けを覚えた俺は、千歳さんに弱みを見せないだけで精一杯だった。
「それじゃ、午後からもう一度動こうか」
「うん。残りを片したらお会計をしておくから、なんだったら外でタバコを吸っててもいいよ」
……それはありがたい。
実はそのパフェまで食べさせられたらどうしようと、内心恐々だったんだ。
まぁ千歳さんも俺が自分の前で吸わないのは知ってるから、これも配慮だ。
断じてデザートを取られたくないとかいう下心はないと、ここはお言葉に甘えさせてもらうことにする。
「それじゃ千歳さん、俺は店舗裏でタバコでも吸ってるから、出てきたら声をかけてね」
「ぬん、あがっら。あらひもすぐイグあらぁ」
だから飲み食いしながら喋るのはやめなさいって!
そんな千歳さんさんとのやり取りに慣れきっていたからか、外に出た俺は些かならず疲弊していた。
「千歳さんもなぁ……本当にどこまで本気なんだか、わからないってのがまた……」
結局、俺の苦悩はそこに行き着く。
人間の裏を読むことに長けていると自惚れる気はないが、ここまで表裏のない人物は初めてなのだ。千歳さんの打算のない好意と無垢な信頼は初見から変わらない。
子供なんてそんなものだと割り切ることもできない。千歳さんに探偵として雇われてからは、俺の過去を知っている素振りが増えた。そうなると、俺の渡航履歴を洗っていてもおかしくない。
だから、俺が分からないのはそこだ。あんな物騒な過去を抱えていると知っていながら、初見の評価を変えようともしない千歳さんが本気で分からない
まったくあのお嬢様は、俺に何の期待をして事務所まで預けたんだか……。
そんなふうに一人では答えの出せない思索に囚われていたのがいけなかった。
複数の人の気配に気付くのが遅れた。
俺が振り向くよりも速く、満腹の胃袋に何かが突き刺さる──。
「──うげえっ!?」
あまりの激痛にうずくまる俺の体と、路上にぶち撒けられる吐瀉物。
俺が殴られたと認識したのは、脇腹を強烈に蹴り付けられてからだった。
「おい、痛めつけんのは後にしろ。さっさと詰め込め。人目につく」
「へい、アニキ───あだだだだッッ!!?」
霞んでぼやける視界の中、胸ぐらを乱暴に掴まれるが……その悲鳴だけで事態の把握は容易だった。
「わたしのおじさんに何してくれちゃってんのかな?」
「ちとせ、さん──」
ああ、やはり反則だ。どう見ても一般市民とは思えない大男を片手で捻る千歳さんは、やはりこの世のものとは思えない。
「なんだ、この小娘」
「ちょうどいい。この女もそいつの身内だっていうなら、ついでに拐って楽しもうぜ」
ああ、千歳さんを知らない哀れな被害者の人たちよ。もっと危機感を持つべきだ。君たちはヒグマより危険な生き物と至近距離で対峙してるんだぜ。
「──やめろテメェら!!」
と、そのタイミングで車道脇のベンツから出てきた男が待ったをかけたが、少しばかり遅かったようだ。男が止める直前に千歳さんを取り押さえようとしたチンピラどもは、当然のような拒否反応に遭った。
その場で重力を無視して半回転。顔面から着地した二人は力無く倒れ、先ほどまで手首を掴まれていた大男は恐怖に震えて動けない。
……これが葛城千歳だ。
俺たちの所長で、最強のヒロイン。傍目にも早々に無力化したチンピラどもとは格が違う男も、忌々しそうに舌打ちをするばかりだった。
「楽な仕事だと思ったが、まさかお前とぶつかるとは、ツイてねえぜ……葛城の夜叉姫……」
おおう。なんか渋いことを言ってるところに申し訳ありませんが、千歳さんは俺の無事を確認することで頭がいっぱいだから、聞いていませんよっとふらつく足で立ち上がる。
「おじさん、大丈夫なの……?」
「うん、千歳さんのおかげでね」
ふらついたところを抱きついた千歳さんに支えられてるんだから、様になったとは口が裂けても言えないけれども……惨めな気分にならなかったのは、きっと君のおかげだろうと心配する少女の髪を撫でる。
「しかも、千歳の男か……。ツイてないにも程があるぜ」
すると俺たちの様子から誤解したのか、チンピラどもの親玉はもう一度舌打ちしたが、サングラス越しの眼差しはまだそれほど悲観的ではなかった。
「……で? 俺を問答無用で拉致るのは諦めたみたいだが、このまま芋を引いてくれると思っていいのかい?」
「図に乗るなよ……と言いてえところだが、俺もその女とやり合う趣味はねえから退いてやる。ただしあの女をどこに匿ったか知らんが、さっさと差し出したほうが身のためだと覚えておきな」
そう言い残して、男はベンツに戻るとただちに車を出した。惨めに転がってるチンピラどもも、残りの連中が千歳さんの視線を気にしながらバンに回収。昼過ぎの騒動は事件になる前に収束した。
「千歳さん。ヤクザまで出てきたってことは、」
「うん。どう考えてもただの痴情のもつれじゃないね。急いでわたしの家に行って美幸さんに確認しよう」
「いや、結論自体は正しいんだけれども……」
そこはせめてただの離婚調停と言ってあげましょうよ、と、こみあげた嘔吐感と一緒に言葉を飲み込む俺であった。
それから時間にしておよそ30分後。タクシーを捕まえた千歳さんの向かった先は、赤坂見附にほど近い超が付くほどの豪邸であった。
やっぱり千歳さんって、普通のお嬢様じゃなかったんだな……。
俺は召使さんが行き来する純和風の邸内でそのことをしみじみと実感しつつ、時折り向けられる視線に居た堪れない気分になりながらも千歳さんが戻るのを待った。
「お待たせ、おじさん」
「神崎さん──」
すると、この応接室へ向かうまでに事の詳細を聞き及んでいたのか、美幸さんの顔には隠しきれない罪悪感が滲み出ていた。
「……まさかあの人たちが、無関係の神崎さんまで狙うなんて」
「美幸さん、残念ながら俺は無関係じゃないよ。美幸さんの依頼を引き受けた俺には、貴女のために働く義務があるんだからね」
「でも、私は……本当の事を何も話さないで……」
それでも、美幸さんにはまだ躊躇いが残っていた。きっと今なら、俺たちをこれ以上巻き込まずに済むと思っているのだろうが、それは承服できない。何故ならあの連中に美幸さんを委ねるなど、出来ない相談だから──。
「恭介さんも今の美幸さんとそっくりだったよ。暴力亭主を演じて美幸さんを遠ざけ、離縁すれば君を守れると信じているようだった」
その言葉に、美幸さんの頑なな心が融解する。あふれた涙は見るからに熱そうで、彼女の抱え込む真実の深刻さが如実に現れていた。
「話してくれるね? 俺を信じて、とは言わない。だから君たちが後悔しないためにも、俺たちが知るべき事を教えてくれ」
「……はい、はい」
そうして美幸さんはすべてを語ってくれた。
恭介さんの会社がヤクザに目をつけられ、資金洗浄に利用されていたことを。
そしてそのことに気づいて何度も恭介さんを制止して。
しまいには、彼のオフィスからヤクザの裏帳簿を盗み出したことも──。
「なるほど、そこまで分かれば俺たちのやることはとてもシンプルだね、千歳さん」
「うん、おじさん」
「神崎さん、それは──」
「手始めにヤクザどもをぶっ潰す。その上で恭介さんを必ず君に会わせる。それだけだよ」
ああ、いつもならこの台詞は千歳さんが口にして、俺が止める役なのにな。
久しぶりに熱くなっちゃったよ。
「神崎さん、どうか夫を──恭介さんをお願いします」
「ああ、任せてくれ。しょせん相手は地方ヤクザだ。国内外の要人中の要人が集まるこの街には手が出せない。美幸さんも気が逸るだろうが、今は俺たちを信じて待っていてくれ」
「はい、今度こそ必ず……」
話がまとまり、俺たちはただちに新宿に戻ろうとしたが、その前に訳知り顔の千歳さんが物騒極まりないものを渡してきた。
「はいこれ、使ってね」
「使ってねって、千歳さん……」
こちらに押し付けられるリボルバー式拳銃と、予備の弾薬──かつて決別した過去の象徴を目の前に突きつけられる。
「おじさんは恭介さんを助けに行くんだよね。ならわたしとは別行動になるし、さすが素手じゃ行かせられないよ」
それは、その通りだ……。
徒手空拳の俺じゃ、その辺の中学生にだって俺は余裕で勝てない。
だから今は、これが必要なんだとわかっちゃいるが……。
「もしかして使い方を忘れちゃった?」
「いや、一度も外したことがないから大丈夫だけど……」
「じゃあやっぱり、人を傷つけるのが嫌なんだ」
ああ、やっぱり敵わないな。
君の笑顔には逆らえないよ、千歳さん。
「でも安心して、おじさんは人殺しなんかにならないよ」
「……」
「わたしがおじさんの安全装置。仮におじさんが暴走しても、きっとわたしが止められる。そう信じて」
「まったく、敵わないな、千歳さんには……」
そう言って、俺は千歳さんからそれを受け取った。
ああ、やはり忘れていなかった。弾倉のチェック。安全装置の解除。それらの手順が流れように出てくる。
「おじさん、それはただの道具だよ。どう使うかはおじさん自由。でもおじさんなら、それを人助けの道具にできる。わたしはそう信じてるからね」
本当にこの少女はどこまで知ってるんだか。
でも。
でも。
ここまで信じてもらえて嬉しくならないなんて嘘だ。
俺は千歳さんに笑いかけると、固く約束した。
「さっさと片して、夕飯にしよう。俺も千歳さんがせっかく食べさせてくれたものを戻しちゃったから、腹が空いてさ」
「いいね。澪さんにお願いして今日は事務所で打ち上げにしようよ。思いっきり贅沢にね」
「了解。それじゃあその前に、俺たちの街から害虫を駆除しよう」
ああ、だから俺の好きな漫画のヒーロー達は始末屋と呼ばれるのか。
人生、生きていればこの歳になっても新たな発見がある。そのことが楽しくもあり、俺は新宿までの道のりをタクシーを使わず20分で踏破した。
すると恭介さんの自宅の近くで、物騒な連中と再会した。
「居たぞ! さっきの男だ!」
チンピラたちが一斉に駆け出す。
その動きは明らかに俺を逃すまいとするもので、何かしらの攻撃を受けるとは微塵も思っていない無防備なものだ。
射線が見える。俺が今から放つ弾丸の軌跡が──。
「悪いけど急いでるんでね」
手始めに二度、コートで手元を隠して火花を散らせる。
パシュッという小さな音と同時に先頭の男が崩れ落ちるが、もう一人は外してしまった。
いかんいかん。百発百中と見栄を切ったばかりだというのに、久しぶりすぎて誤差を修正しきれなかったか……。
「はあ? なんだよ急に……」
だが、おかげで手に馴染んだ。
男たちが足を止めてくれたのも俺の有利に働いた。
今度は外さない。
こめかみを掠める軌跡で44マグナムを放つと、標的となった男たちは残らず失神した。
誰一人、悲鳴を上げる暇もなかった。
「……やっぱり、この感覚は体が忘れてくれないか」
俺の名前は神崎玲司。真の探偵に憧れる作家崩れだ。
その俺がまさか昔の経験に助けられるなんて夢にも思わなかった。
「だが有り難い。おかげで、恭介さんを助けられる」
玄関前に見張はない。
一階も無人。
二階は、奥の部屋に──気配だけで、おおよその人数はわかった。
……多くても五人。
こちらに気づいた様子もなく、目立った動きもない。
これならば、今の俺でもさほど苦戦はしない。
「待っていてくれ、恭介さん。すぐに行くよ」
だから、俺が注意することはひとつ。
恭介さんを人質に取られても冷静でいること。
ただそれだけだ──。




