第一話『主人公は探偵の理想を語り、現実の事件に叩き込まれる』
時代が昭和から平成になろうと、新宿の街から消えないものがあった。
人の欲望。
そして、その欲望が生み出す小さな事件だ。
俺は神崎玲司
探偵に憧れ、探偵になった男──と言えば聞こえはいい。
実際は、小説家になれなかった三十二歳の男である。
『──君は、いつもこんな事をしているのか?』
『いつもじゃないよ。暇なときに助けてほしいと言われたらできる範囲で、だから』
『ああ、それ自体は普通だ。でも君のできる範囲は普通じゃない。だから何でもかんでも抱え込むハメになる』
『そうかもしれないけど……やっぱり見過ごせないよ』
『それは、俺も分かっている。君がそういう子だって……だから俺は決めたよ。君の誘いを受ける。探偵になって、君の代わりに働く』
『ホントに……?』
『ああ、でもその代わり──君は普通の女の子を目指してほしい。学校帰りに友達とクレープを買い食いするような、そんな普通の女の子だ』
『うん、うん……約束する……』
『俺も約束する。君をけして泣かせはしない。それが俺の約束だ』
それからおよそ一月あまり。
少なくとも俺は、あの時の約束を守っているつもりだった。
だが、現実の俺は……。
「おはようございます神崎さん。タイムカードを押して勤務時間になったら、こちらの書類から片してくださいね」
出勤した俺を待っていたのは、デスクを埋め尽くす書類の山だった。
浮気調査で事務所を空けがちだったから、ある程度は溜まっているだろうと予想はしていたがこれは酷い。
返す言葉を失った俺は、しばらく黙り込んだあと、恐る恐る訊ねるより他になかった。
「あの、澪ちゃん……この書類の山は何かな?」
「神崎さんが手掛けている浮気調査の報告書と、必要経費の申請書がメインですが、他にも所長宛の日報が滞っていましたので、そちらの書類も含まれています」
「いやいや、さすがにおかしいって……サラリーマンや公務員じゃないんだから、探偵が書類仕事に追われるって、澪ちゃんも変だと思うでしょ?」
「いえ、全然」
俺は思わずライターを手にしたまま固まってしまう。
知らない。こんな苦労が似合うのは、せいぜい海外ドラマの刑事くらいのものだ。
だから俺は聞こえなかったフリをして、震える手で咥えたばかりのタバコに火をつけた。
銘柄はラッキーストライク。とある映画に憧れて吸い始めたが、正直まだ苦い。それでも俺は煙を吐きながら、いかにも探偵らしい台詞を口にした。
「この味が男の人生だと言ったのは誰だったかな。俺が思うに、そいつはきっと世知辛い人生を送ってきた男だろうぜ」
「それ、前も聞きましたね。煙たいんで空気清浄機にきちんと吹きかけてくださいね」
「男の悲哀を受け止めるのは空気清浄機の役目じゃないと思うんだが、澪ちゃんにはまだ早かったかな?」
「知りません。それと必要経費の申請書は後日で構いませんが、浮気調査の報告書と所長宛の日報は本日中にお願いします。特に日報は毎日提出しないと所長のご機嫌に影響するので」
だからそれは探偵の仕事じゃない、という言葉をグッと飲み込む。
確かに創作でその手の苦労は描かれていないが。
きっと絵にならないから省かれているだけで。
現実の探偵という仕事は、もっと世知辛い。
だがもう少しこう、なんというか、手心のようなものがほしくって抵抗したかった。
「……澪ちゃんには分からないかもしれないけどね。探偵ってのは、本来もっと格好いい仕事なんだ」
俺は窓際の空気清浄機の前で紫煙を吹かせ、誰に聞かせるでもなく語っていた。
「誰も見つけられない真実を探して、誰かを救う。少なくとも俺は、それに憧れてここまで来た」
窓の向こうには、新宿の街並みが広がっている。
高層ビルの隙間を縫うように人が行き交い、昼も夜も関係なく欲望と感情が渦巻く街。
まさに、探偵が生きるには相応しい場所だ。
「俺もまた、その系譜に連なる者として……」
そこでチラリと横目で確認するが、澪ちゃんときたらまるで興味のない様子でやんの。
「神崎さん。言いたいことがあるのはみんな一緒です。だから頑張って仕事するしかないんです」
そのあまりにも切実な一言で現実に戻される。
冷めた声の主は、自分の席でパソコンのキーボードを叩いてる娘で、名前は水野澪。
俺の助手……と言いたいところだが、実際には俺同様にこの探偵事務所の所長に雇われて、事務員をしている女性だ。
当然、過去の経歴は何も知らされておらず、まだ二十歳そこそこで俺以上に書類の山に追われてるにしては、妙に落ち着いている。
というか、澪ちゃんの俺を見る目が、窓際族に向けられる女子社員みたいなのが気になる……。
「とりあえず、神崎さんの哲学はご理解しましたので、お仕事をどうぞ」
「いや、そのね……俺はその仕事の仕組みを今からでも変えるべきだと」
「お仕事をどうぞ」
彼女は淡々と仕事をこなしながら、俺の提案をにべもなくあしらう。
「とりあえず最優先は浮気調査の報告書ですね。明日の午前には依頼人が調査結果を聞きにくるので、本日中にお願いします」
「報告書って言ってもなぁ……仕事帰りに2週間尾行して、何もなかったんだから特に書く事がないんだが」
「ですから、それを書いてください。以前の日報と記憶を参考に、日付ごとの帰宅までの道のりと、立ち寄った店舗の様子を全部あちらにまとめてくださいね」
「それ、はっきり言って時間の無駄じゃないかな? 別にやましいことはないんだから、浮気は奥さんの気のせいだって言ってやるのが一番じゃ……」
「あのですね。旦那様の浮気を疑ってる奥様が“何もなかった”で納得すると思いますか? 納得してほしいのなら、それ相応の報告書が必要になるんですよ。さすがに私も白紙の報告書じゃ奥様を納得させられませんから」
……そう言われるとぐうの音も出ない。
それでも俺は、簡単には納得できなかった。
俺は根本まで吸い切ったラッキーストライクを灰皿に押し付けると、大きく息を吸い込んで反論するのだった。
「探偵というものはだな。もっとこう……巨大な陰謀とか、国家規模の謎とか、そういうものに挑むべきだと思うんだ」
「そうですね」
「だから俺が追っている浮気現場の写真というのは、少しばかり本来の探偵像とは違うというか」
「そうですね」
「俺ほどの才能が、他人の恋愛事情を追いかけるだけというのは、その……」
「神崎さん」
「はい」
「仕事してください」
ああ、あまりにも無情な宣告。
俺の理性、経験、そして社会常識が彼女の正しさを認めてしまう。
だが俺の理念が間違っていたわけではない。事務所の存続という世知辛い事情に配慮しただけだ。
……そういうことにしておこうと、俺は自分のデスクに戻った。
ちなみにパソコンなんて俺には使えないので、報告書は必然的に手書きだ。
普段は苦にならないが、正規の書類ゆえに鉛筆不可、誤字の修正は二重線と捺印が必須となるとさすがに辟易する。
「澪ちゃんはいいなぁ……この書類、パソコンで作ったんでしょ?」
「はい。神崎さんもお使いになるなら手配しますが?」
「いや、俺は無理。この歳で新しいことを覚えるのはしんどいよ。なんせ俺たちの世代はパソコンなんて一部のマニアがゲームを遊ぶのに使ってたんだぜ? 俺みたいな文系が馴染めるはずないよ」
「そうですか」
あ、ダメだこれ。欠片も興味ないでやんの。
ここまで会話が噛み合わないと、どうして同じ職場にいるのか不思議でならんよ。
「……俺はな」
だから俺が口にしたのは、若い子に相手にされなかったオッサンの負け惜しみだ。
「いつか必ず、歴史に残る探偵になる」
「そうですか」
「本当だぞ? 俺自身が名探偵になれずとも、必ずやその名に値する主人公を生み出してみせる。それこそが偉大なる先達の系譜を受け継ぐ俺の使命なんだ」
「はいはい」
「……少しくらい信じてくれてもいいと思うんだが」
やはり分かりあうのは不可能かと諦めかけたら、澪ちゃんはそこでキーボードを叩く手を止めて。
「信じてますよ」
意外な返答に顔を上げる。
彼女は少しだけ笑っていた。
「神崎さんが、どんな依頼でも手を抜かないことは知ってますから」
「……」
「ですから、とりあえず今日の報告書を終わらせてください。退勤後の食事くらいなら付き合いますから」
「……おう。自慢じゃないが俺は作家志望でね。読者好みのストーリーをでっち上げるのは慣れたもんさ。昼過ぎには終わらせるよ」
「すごいですね。たしか芥川賞の最終選考まで残ったんでしたっけ? 期待してるんで頑張ってくださいね」
「おう。そんときゃ澪ちゃんに推敲を頼むよ」
結局、男なんて単純だ。
ああ言われたら、頑張るしかない。
そんな、いつも通りの午後だった。
このときの俺はまだ知らなかった。
現実の探偵事務所に持ち込まれるのは退屈な浮気調査や、迷子のペットや老人探しが関の山。
およそ“事件”と呼べるような依頼が舞い込むなんて、とてもとても──そう思い込んでいた俺の常識が根底からひっくり返される。
そんな事態はまるで想定していなかったのである。
──数時間後。
そろそろ学校帰りの所長が顔を見せる頃合いか、と本日何本目かのタバコに火をつけた直後に、その予感が的中した。
「おじさん居る!?」
と、来るのは分かってたが随分と前のめりな様子だ。
俺たちの所長──葛城千歳という女の子は天真爛漫で、普段はもっと飄々としている。
つまり、何かあった。
そう当たりをつけた直後に、千歳さんの背後から一人の女性がおずおずと姿を現した。
結構な美人だし、身なりも上等だが、千歳さんが有無を言わせぬ勢いで連れてきたからだろうか。状況を飲み込めず目を白黒させている。
「……所長、説明してくれ。背後の女性は当探偵事務所の依頼人、ってことでいいのかな?」
「うん。近くの喫茶店で話を聞いて保護してきたんだよ」
そう言った少女の後ろで。
ひどく怯えた顔をした女性が、震える声で呟く。
「……はい。千歳さんに説得されてここまで来ました」
なるほど、なるほど。本人の言質も取れたので、これで拉致の線はなくなった。
なんでこんなに切羽詰まってるのかは解らないが、思い込んだ一直線の千歳さんの暴走の可能性が消えたのならば、俺のすることはひとつだ。
「……何があったか教えてくれるよね」
小さな呟きに千歳さんが自信を窺わせる笑みを見せる。
「うん、なんかそれっぽい人たちに尾行されてたから、とりあえずこの人を抱えて逃げてきたんだよね」
「いやいや、そんなセリフを自信満々に言わないでもらえる!? 何も知らない人を問答無用で連れてくるって、どう考えても犯罪スレスレでしょうが……!!」
千歳さんが持ち込んだ案件にしてはまともな、と思った直後にこれだよ。
これだから千歳さんは油断ならないんだよなぁ……俺は続ける言葉に迷ったが、この日はどうやら代わりに謝罪するハメにはならずに済みそうだった。
「横からすみませんが、千歳さんを責めないであげてください……私にも追われている自覚はありましたから」
そう千歳さんをフォローする女性の言葉に、俺は「おやっ?」と思った。
変わらず彼女は状況を飲み込めておらず、自分を落ち着かせるのに必死だ。
にも拘らず、彼女の根っこは揺らいでいない。
それはある種の覚悟を固めた人間特有の胆力に思えてならない。
「もしかしたら、私は夫に殺されるかもしれません」
彼女は震えながらそう言った。
その一言で。
この退屈な探偵稼業は、終わりを告げた。




