第1話:花街の香りと、下女の私
現代医学をベースに置きつつ、東洋医学の知識などを盛り込みました。
その為、全体的に若干小難しい作品になってしまいましたが、なるべく、わかりやすく医学の知識を
かみ砕き、専門的な言葉は書かない予定です。
もしわかりづらいなどありましたら、ご意見ご感想をいただければ善処いたします。
後宮・紫宸殿の庭は、朝露に濡れた白梅の香りに包まれていた。
その静謐を破るように、あわただしい足音が廊下を走る。
「高貴妃さまが……! 倒れられました!」
侍女の悲鳴とともに、周囲は一瞬で騒然となった。
その場にいた小花は、驚愕に目を見開いた。
身分はただの下女。けれど、花街で香の調合師の祖母に育てられ、薬草や香に関する知識だけは並の医官より詳しい自負がある。
「おい、そこの下女! 医官を急げ!」
叫ぶ声にうなずき、小花は廊下を駆け出した——かに見せかけて、脇の薬草庫にすぐさま向かった。
彼女の目はただの下女のものではなかった。高貴妃・薛麗花の様子は、ただの気絶ではない。唇が青白く、呼吸は浅く早い。胸元に手を当てていたことからも、これは恐らく「胸痹」――今の言葉で言えば、心の血流が滞った状態に近い。
それは小花が花街の裏で、心疾患を患う客に対して祖母が施していた処置と同じだった。
「……香で落ち着かせて、気を回し……」
小さく呟きながら、小花は香の小箱を開いた。そこには、自らが調合した香薬がいくつも並んでいる。
その中から「山梔子」「桂皮」「蘇葉」を基に調合した香珠を一つ取り出す。熱を冷まし、血を巡らせ、気を安定させる——香と薬の中間のような特殊な処方。
すぐに自ら使いたい衝動に駆られたが、身分を考えた小花は踏みとどまり、香の入った小瓶をそっと袖に滑り込ませ、再び現場に戻る。
医官が駆けつけ、薛麗花を診ていた。
「脈が乱れておりますな。これは……冷えと気の滞り、か」と眉をしかめる。
小花はおずおずと一歩前に出て、控えめに言った。
「失礼いたします。香薬の心得が少しだけございます。この処方、先ほど医官様より託されました。もしかすれば、お役に立てるやもしれません」
侍女の一人が小花から受け取った香薬を、怪訝な目で見つめる医官へと差し出した。
医官はそれを一瞥し、しばし考えたのち、うなずいた。
「……まあ、試すだけ試してみよう。妃殿下の呼吸は浅いが、まだ意識は完全には落ちていない。鼻先に少し近づけてみよ」
侍女が慎重に香薬の小瓶を開け、薛麗花の鼻先へとかざす。
数瞬の沈黙。
ふと、薛麗花の睫毛が微かに動いた。
「……う……ぅ……」
「動かれました!」
「脈が……整ってきております!」
周囲がどよめく中、小花は少し離れた場所で静かに手を合わせた。
あくまで、自分は渡しただけ。処置を行ったのは侍女であり、医官の指示に従った形——そう、決して出過ぎた真似などしていない。
けれど、小花の中では確信があった。
「きっと、これで妃さまは持ち直す」と。
その日以来、誰も知らぬところで、後宮に小さな風が吹き始めた。
調香と薬草、そして知識と観察。
下女にしては妙に気が利く少女の存在が、じわじわと噂され始めるのは、もう少し先の話である。