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30 乙女の愛

「それじゃあ、一度、瘴気の浄化をやってみてくださいな」

「はい」


 リヴィアたちがいるのはロブストフェルスの瘴気が溢れる森の中。普段の見回りと比べて騎士の人数が多いのは、リヴィアを含めた四人の『浄化の乙女』が同行しているから。


 安全で、少し薄暗く、瘴気の浄化の効果が目に見えるくらいの濃さのところまでやってきて、リヴィア、アデル、ジャッド、セルシュの四人は馬から下された。


 その後、護衛のエレナだけを残して、他の騎士は声が届かない辺りまで散る。多くの騎士に囲まれて気を張っていたのはリヴィアだけではないようで、ジャッドやセルシュも人が減ってどこかホッとしていた。


 リヴィアは一瞬だけ、遠くに離れて待機しているウォルターを振り返る。


 アデルとウォルターが午前中どんな話をしていたかはよくわからないし、教えてもらえなかった。アデルはリヴィアが瘴気を浄化できない理由がわかったと言っていたが、それに関係することなのだろうか。

 ならば、何故、それをリヴィアに教えてくれないのだろう。


 そのことについて、ほんの少し不満はあるし、それと同じくらい不安もある。アデルに教えてもらって、それでも瘴気を浄化できなかったらどうしようという不安が。


 だが、リヴィアはそれを頭を振って振り払い、目の前のことに集中した。

 今、できなかったときのことを考えても意味がない。それに、アデルが助けてくれるのだ。何故、できないかは彼女が教えてくれる。


 だから、この不安は今は必要ない。


 深く息を吸って吐き、リヴィアは地面に手を付ける。その様子を他の三人の少女たちがじっと見つめている。


 普段とは違った緊張感の中、リヴィアは目を瞑って集中し、手のひらに魔力を込めた。


 いつも通り、ココネが瘴気を浄化するときをイメージして。


 パチン、と魔力が使われた音。だが、いつも通り、魔力は空気中に霧散するばかり。

 リヴィアは続けて、二度、三度、と手のひらに魔力を込めたが、結果は全て同じだった。いつもと同じように瘴気は浄化されない。


「もういいわ。リヴィア様」


 アデルの声にリヴィアの集中が乱れ、バチッと魔力が弾けた。

 リヴィアは恐る恐る顔を上げる。目に映ったアデルの表情は優しげだったが、リヴィアにはどこか冷たく感じた。


「あ、あの、ごめんなさ……」


 魔力に弾かれた手を握りしめながら謝罪しようとするリヴィアの額を、アデルがツンとつつく。


「眉間にしわが寄ってる。顔に力が入りすぎ。わたくしが言ったことを忘れたのかしら? 好きなものを愛でて、愛して、楽しむこと。それが瘴気の浄化に繋がるって」


 アデルにつつかれた場所を手で押さえて、リヴィアはポカンと彼女の顔を見る。にこやかに笑う彼女の顔に失望の色はなく、何も問題ないのだと言っているようにも見える。


 目の前に差し出されたアデルの手をとって、リヴィアは立ち上がった。

 確かに彼女の言う通り、力を入れすぎていたのかもしれない。


 だが、だからと言って、どうすればいいのかはわからないのだ。アデルは『浄化のカギは愛だ』と言っていたが、『愛』があるから何だというのだろう。


 リヴィアのそんな心情を見透かしたのか、ジャッド、とアデルは声をかけた。ジャッドはわかってるというように、持ってきていたケースを手にリヴィアの隣に立つ。


「準備するから、少しどいてもらえるかい? セルシュ、ケースを持ってて」

「あ、はい」


 ケースの中から取り出されたのはバイオリン。ジャッドはケースをセルシュに渡すと、軽くチューニングを始めた。


 じっとその様子を見ているリヴィアに、アデルの説明が入る。


「百聞は一見に如かず。実際に瘴気を浄化するところ、見てみたいでしょう? わたくしがやってもいいのだけれど、ジャッドの方がわかりやすいから」


 そう言って、アデルはリヴィアの腕を引いて、少しだけジャッドから離れた。


 チューニングが終わったのか、ジャッドが動きを止めて静かに集中する。それから、リズムを取るように軽く弓を左右に振り、バイオリンの弦に当てた。


 ジャッドが弓を引く。

 高く、鋭く、最初の一音が響いた。と同時に、初めてジャッドの顔が優しく綻んだ。


 目を引くような初めの一音から、柔らかく次の音が続く。そこからゆっくりと流れるように、音が次々と連なっていく。

 柔らかく、優しく、美しい音色がジャッドを中心に響いていく。波のように広がるその音ともに、薄暗かった瘴気がわずかに晴れていく。


 聞いたことのない曲。初めて触れた生の音楽。城の部屋の中で遠くから聞こえてくる音に耳を澄ませたことしかないリヴィアにとって、生で聞くジャッドの演奏は衝撃的だった。


 彼女から目を離せない。今は彼女の奏でる音楽以外が耳に入ってくることはなく、彼女以外の姿が目に入ることはない。


 音が曲として紡がれていく。ジャッドは滑らかに盛り上がりの部分を奏で、最後の一音の余韻を残して、そっと弓を弦から離した。


 ふー、とジャッドが溜息をつく。


 パチ、とリヴィアは知らず知らずのうちに手を叩いた。

 パチパチパチパチ、と続くリヴィアの賞賛の拍手は止め時を知らない。それだけでは飽き足らず、リヴィアは頬を上気させてジャッドに近寄った。


「す、すごいね! すごい! 本当にすごかった!」


 無邪気にはしゃぐその姿は幼い子供のよう。けれども、その勢いに気圧されることもなく、ジャッドは和やかに微笑む。


「聞いてて楽しかったかい?」

「うん!」

「それは何より」


 奏者を褒めたたえている観客に、アデルが静かに近づいてくる。


「それで、どうだったかしら? 初めて見る浄化の方法は?」


 すごい、すごい、と連呼していたリヴィアはアデルの言葉を聞いて、ハッと口を噤む。興奮していたようにばたつかせていた腕の動きは止まり、さっと顔から朱色が引いていく。


「……え、あ、その、ごめんなさい。本当にジャッドの演奏が素敵だったから、その、瘴気の浄化がどう、とか、考えてなくて……」


 しどろもどろに答えるリヴィアに対し、その返答に満足したのか、アデルはドヤッと得意げな顔を見せる。


「当ったり前でしょう? うちの自慢の聖女なんだから。ジャッドの音楽の才能は宮廷楽団にも認められる程なのよ?」

「どうして君が胸を張るんだい、アデル? 褒められてるのは僕なんだけど」

「あなたが褒められているということはわたくしも褒められているということよ」

「全然違うけど」


 気安く言い合う二人を横目に、リヴィアは先ほどのジャッドの演奏風景を思い出す。

 確かに、ジャッドが演奏をしている瞬間、瘴気は薄まっていた。肉眼では少しわかりにくいが、ここの空気は周囲よりも浄化されているように見える。


 ならば、どうやって。

 それを思い出そうとしても、リヴィアの頭の中には先ほどのメロディーと、その演奏がすごかったという感想しか浮かばない。


 せっかくジャッドが瘴気を浄化してくれたのに、リヴィアは何の学びも得られていない。


 不甲斐なく肩を落とすリヴィアを見て、アデルがふっと笑った。


「リヴィア様は本当に真面目な方なのね。瘴気を浄化するためには好きなものを楽しむことって、わたくしはちゃんと言ったのに。ジャッドの演奏が素晴らしかったのなら、素直に素晴らしかったと言えばいいのよ。それに、ジャッドの演奏に夢中になってしまうのは当然のことだもの」

「だから、どうして君が誇らしげなんだい?」


 アデルを咎めるように言ってから、ジャッドはリヴィアに目を向けた。


「そんなに難しく考えなくていい。楽しむということは心を委ねること。自分の心をそのまま音に委ねて楽しむ。それが僕の音楽に対する愛。僕の楽しいという感情を君が感じ取ってくれたなら、それでいいんだよ」


 そう言ってふわりと笑うジャッド。その笑みは見るものを惹きつけるような笑みで、彼女について来てと言われたらどこまでもついて行ってしまいそうな笑みだった。


 思わず見惚れるリヴィアに、アデルは声をかける。


「ねえ、リヴィア様。あなたは何を考えて瘴気を浄化しているのかしら?」


 その質問にハッとしてリヴィアはアデルの顔を見る。表情とどこか噛み合っていない問いかけは、まるで昨日の会談の時のよう。

 こちらを見極めるようとしているアデルの赤い瞳に、リヴィアは怖気付いたように目を逸らした。


 何を考えて。


 自分が瘴気を浄化しようとした時のことを思い出して、リヴィアの胸がチリ、と焼けつく。


 チラチラとチラつく黄色のドレス。

 『何の役にも立っていないくせに』。ココネが言ったその言葉。


 それはチリチリと焦がすようにリヴィアの胸を焼き、きゅっとリヴィアの体を萎縮させる。息が詰まる。体が硬直する。


 その瞬間、グイ、と眉間に指が当てられ、リヴィアの顔が無理やり引き上げられた。リヴィアの目に映るのは得意げなアデルの顔。


「ほら、また。眉間に皺が寄ってる」


 驚きで丸くなったリヴィアの目を見て、アデルはそっと指を離す。リヴィアの目は自然とアデルの指を追った。


「リヴィア様の頭の中に今何があるのかはわからないけれど。それ、あんまり考えない方がいいわよ。今は忘れてしまいなさいな」


 平然と言うアデルに、リヴィアは、でも、と眉を下げる。


 忘れてしまっていいのだろうか。彼女を、あの言葉を。


 リヴィアの表情から納得していないことを読み取ったのか、アデルは言葉を続ける。


()()、よ。完全に忘れなくてもいいから、今は別のことに集中しなさい。今までそれを考えていたから瘴気を浄化できなかったんでしょ? なら、もっと何か、楽しいことを考えなくちゃ。ね、ジャッド?」


 パッと振り返って何かを促すようなアデルの声掛けに、ジャッドは軽くため息をついた。だが、不満そうにしているのはアデルに対してだけのようで、リヴィアへの態度は先ほどと変わらずどこか優しい。


「リヴィア。何かリクエストはあるかい?」


 ジャッドの言葉に、リヴィアはパチリと瞬きする。軽くバイオリンの弓を振るジャッドを見て、聞きたい曲はあるかと聞かれているのだと気づいた。


「え、えと、……。あの、私、そんなに音楽は詳しくなくて……」

「何でもいいよ。綺麗な曲とか、明るい曲とか、雰囲気だけでもいいから」


 何でも、と言われ、リヴィアは少し考え込む。どんな雰囲気の曲が好きか、自分でも考えたことがない。


 城の中にいたときに聞こえてきた音楽は厳かで壮大なものが多かった。リヴィアがよく触れてきた音楽はそういうものしかない。綺麗な曲、明るい曲、と言われても、ピンとくるようなメロディーがない。


 しばらく考えて、リヴィアは口を開いた。


 リヴィアはあまり音楽に詳しくない。けれど、もしも、もう一度聞けるとするなら――。


「……賑やかで、踊ってみたくなるような曲がいい」


 五年前、城下町の市場で流れていた音楽。その曲の名も、誰が弾いていたのかも知らない。けれど、もう一度聞くならそんな曲がいい。


「なら、『シルフィードの輪舞曲』なんてどうかな?」


 ジャッドはバイオリンを構え、一、二、とリズムを取るように弓を振った。

 彼女の肩に添えられたバイオリンの弦が再び空気を震わす。わずかに異なる似たような旋律が繰り返され、まるでクルクルと何かが踊っているような曲。


 五年前に聞いた曲とは違う。けれども、よく似た雰囲気がある。


 あの時の思い出とどこか重ねながら、リヴィアはジャッドの演奏に聞き惚れた。


 だが、とリヴィアは気づいた。


 確かにジャッドの演奏は素晴らしいが、彼女から目を離せないのはそれだけが理由ではない。

 彼女から目を離せないのは、ジャッドがとても楽しそうだからだ。


 音楽に触れているとき、彼女はとてもいい表情をしている。幸せそうに、楽しそうに、ただ音楽に触れる喜びを享受している。


 それがきっと瘴気を浄化するのだろう。柔らかく、わずかな白い光とともに、ジャッドの周りの瘴気が少しずつ浄化されていく。


 きっと、瘴気を浄化するということはこういうことなのだろう。


 ならば、リヴィア(自分)は?


 音楽に聞き惚れるリヴィアの胸を何かがチクリと刺す。


 喜び、愛でて、楽しみ、愛す。『愛』と呼ばれるもの。

 ジャッドにとってはそれが音楽なのだろう。


 ならば、リヴィアにとっては何がそれに当たる?


 考えても答えは出ない。


 楽しそうにバイオリンを弾いているジャッドを見ながら、リヴィアは楽しそうな彼女に憧れることしかできなかった。

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