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1 出会い

「お嬢様ー! お嬢様ー!」


 年配の女性の声が人気のない通路に響く。パタパタパタと通路を歩き回る足音と、ガタゴトと物をどかす音。その合間にまた、お嬢様ー、と呼ぶ声が聞こえる。


「お嬢様、どこですかー?」


 ガチャン、とどこかの扉が開いた音がして、その声が中に入っていった途端、物陰から一人の少女がダッと飛び出して行った。


 年頃は十を少し超えたくらい。腰まで伸びたまっすぐな金色の髪に、春の空のような柔らかな青い瞳。シンプルな白のワンピースの裾を翻して走るその姿からはどことなく気品のようなものが窺える。


 彼女の足音が気づかれたのか、それとも長年の勘が働いたのか。少女が走り出すのとほぼ同時に、彼女の背後から、お嬢様! と呼びかける声が響く。乳母に見つかったことに少女は気づいたが、立ち止まる気はない。後ろを一切振り返らずに、少女はただ人気のない通路を走った。


 少女が生まれ育った王城は広く、かなり入り組んでいる。敵に攻め込まれたとき、彼らの侵入を少しでも遅らせて王族の脱出の時間を稼ぐためらしい。


 それが今、どのように作用しているのかというと、少女が王城から脱出するのを防いでいた。


 あっちに行けば壁、こっちに行けば行き止まり。スロープを下った先には上りの階段。乳母は少女よりも王城を知り尽くしているためか、いつの間にか先回りされていることも多々ある。


「どう、やったら、出られるんだろう……」


 走り回った少女の息は上がり切っている。ふと窓の外を見ると、太陽はもう真上に上がっている。ずっと前からこの計画を練っていたのに、まさか朝から昼時まで乳母と王城で追いかけっこをする羽目になるとは少女は微塵も思っていなかった。


 明日は三年に一度の儀式。だからこそ、王城を巡回する騎士の数も少なく、脱走するには絶好のチャンス。の、はずだったのだが、最難関の乳母を振り切ることができない。


「大した体力はないと思ってたのに……」


 少女の息が少し整ってきたかと思えば、また背後から、お嬢様ー! と呼ぶ声が聞こえる。


「もういい加減諦めてよぉ……」


 半分泣きべそをかきながら、少女はまた通路を走り出した。


 どこをどう通れば外につながっているのか、少女には検討もつかない。一応、脱出経路は考えていたはずなのだが、あちこち走り回っているうちに自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。


 あとはもう適当。ただひたすら駆け回って知っている道に出るまで走るしかない。

 それまで乳母から逃げ切れるだろうか。ちら、と後ろを見れば、彼女はかなり近くまで迫ってきている。


「足も速いなんて卑怯だぁ……」


 せめてもの悪あがき、と言わんばかりに、少女が角を曲がった瞬間、ドンッ、と何かにぶつかった。


 少女は弾き飛ばされるように、後ろに尻餅をつく。曲がり角だと思ったら行き止まりだった、なんてことはさっきから何度もあった。どうしてそれを確認しなかったのだろう。


 いたた、とぶつけた鼻をさすりながら、顔を上げる。と、目の前に大きな手の平が差し出されていた。


「大丈夫か?」


 落ち着いた低い声が少女に話しかけてくる。少女の目の前にいたのは騎士のような恰好をした青年だった。


 少女は目を瞬かせながら、身をかがめた青年を見た。後ろに撫でつけられた黒い髪に、黒曜石のような黒い瞳。服もマントも真っ黒で、腰には剣をさげている。


 彼の着ている騎士の制服は少女には見覚えのないものだった。という事は、彼は王城の騎士ではない。そもそもこの時間、騎士はここを巡回しないはずだ。


 ありがとう、と少女は呆気にとられながら、彼の手を取った。男性特有の固くて大きい手の平は少女の華奢な手などすっぽりと収まるもので、彼は事も無げに少女の体を引き起こした。


「怪我は?」


 黒ずくめの青年は少女に問う。少女が大丈夫、と答えようとした瞬間、お嬢様ー! と乳母の声が響いた。ビクリと肩を震わす少女と、不思議そうに角の向こう側をのぞき込もうとする青年。そんな彼の体を少女は慌てて押し戻す。


「匿って!」

「は?」


 こっそりと、けれどもはっきりした声で、少女は青年に呟くと、返事も待たずに彼のマントの影に潜り込んだ。


「お嬢様! ……っと、ご来賓の方ですか。申し訳ありません、お騒がせして」


 乳母の声が聞こえたのはその後すぐ。彼女は少女と同じく、見覚えのない青年に一瞬呆気にとられたあと、すぐにこの城に仕える使用人らしい丁寧な対応を取った。


 すぐ近くに聞こえる乳母の声に少女は息を殺すように口を押さえた。ここで青年が少女のことを乳母に突き出してしまえば、計画は全て水の泡。乳母の手によって部屋に連れ戻されてしまう。


「いいえ。……ところで一体何が?」

「それが、私がお仕えしているお嬢様が逃げ出してしまいまして。こうやって追いかけているのですが、中々捕まらず……。不躾で大変申し訳ないのですが、こちらに金色の髪の女の子が走って来ませんでしたか? 年の頃は十二歳なのですが……」


 青年と乳母の会話に少女の心臓がドクドクと高鳴る。


 青年はどう出る? 乳母は少女に気づくだろうか? いっそ、乳母が青年に気を取られている間に走り出した方がまだチャンスがあるのでは?


 捕まりたくない。ただその一心で、少女はギュッと青年の上着の背中を掴んだ。

 その真意が伝わったのかどうか。青年の体がわずかに身じろぐ。

 青年の声は乳母にこう答えた。


「ああ、さっき見かけた子がそんな子だったような……。私には脇目も振らずにあっちに駆けていきましたよ」


 青年のとぼけた声とともに、スッと腕が動く気配がする。きっとどこか適当な場所を指さしたのだろう。


「まあ、本当ですか!? ありがとうございます。……まったく、足の速いことで」


 そう言ってわずかな衣擦れが聞こえたあと、また、お嬢様ー! の声とともに、乳母の足音が遠ざかっていった。


 乳母の声が遠くなって、その反響も聞こえなくなったころ、ようやく少女は青年のマントの影から顔を覗かせた。


 乳母がどちらに行ったのか、少女にはわからず、キョロキョロと左右を見渡して乳母の姿が見えないか確認する。と、ふと青年が少女の事を見下ろしていることに気が付いた。


「……あ、ありがとう。匿ってくれて」


 気恥ずかしさからか、少女は顔を赤く染めて青年のマントの影から出る。


 乳母から逃げるためとはいえ、見知らぬ人に対して少し大胆だったかもしれない。だが、どうしてもあそこで乳母に捕まる訳にはいかなかった。


 青年は少女をじっと見つめながら、どういたしまして、と返した。


「で、どうして君はあの女性から逃げてたんだ?」

「……あ、えっと」


 改めて青年の姿を見てみれば、彼の背は少女よりもずっと高く、体も大きい。黒い騎士の制服はそれを着ているだけで威圧感がある。


 じり、と少女が後ろに一歩下がれば、逃がさない、というように青年の手が少女の腕を掴んだ。触れたことのない強い力に、少女の顔はサァッと青ざめる。

 右に、左に。腕を大きく揺さぶってみても手は離れず、もう片方の手で腕を引き剥がそうとしても指の一本すら動かせない。青年の顔を見上げれば、冷たい目が少女の事を見下ろしていた。


「……あ、わ、わ」


 怯えた目を見せる少女に対し、青年は呆れたように息を吐いた。彼はそのままストン、としゃがみ込み、顔を少女の目線の高さに合わせる。少女の腕を強く掴んでいた手は、軽く少女の手に添えられるだけになっていた。


「あのなぁ、もし俺が悪い大人だったらどうするんだ? 今みたいな怖い思いじゃすまないかもしれないんだぞ」

「……あ。えっと、その、……ごめんなさい」

「謝らなくていいから。大した理由で逃げてきたわけじゃないなら早くあの人のところに戻りなさい。何かあってからじゃ遅いんだから」


 そう言って青年は立ち上がって少女の手を引く。が、少女がその場から動くことはなかった。


「……やだ」

「は?」


 少女は顔を俯かせたまま、青年の手をギュッと掴む。


「このまま婆やのところに戻るくらいなら、あなたに攫われる方がいい」


 青年はしばらく呆けたように少女を見つめ、それから慌てた様子で少女の前にしゃがみ込んだ。


「待て待て待て! 自分が何言ってるのかわかってんのか」

「うん」

「本当に俺が悪い大人だったらどうする!?」

「あなたが本当に悪い人だとは思ってない」

「……もう匿った時点でほぼ同罪だが、ここでお前を見逃すと俺も悪いことになるんだぞ!?」

「ごめんなさい。でも、戻りたくない。私のこと、内緒にしてて」


 青年がのぞき込んだ少女の顔は青白くて、弱弱しくて、華奢で、それでもその青い瞳は強い意志を持っていた。

 この少女は何を言っても諦めない。彼女の瞳からそれを読み取った青年は、あー、と唸り声をあげながら頭を掻いた。


「何なんだ、このワガママお姫様は……」


 ぽつりと青年が呟いた言葉に少女の肩がびくりと跳ねる。少女の顔には先程の強い意志とは別に怯えのようなものも混ざっていた。


 そんな少女の顔を青年はじっと見つめた。

 ここで彼女の手を離せば、きっとまたすぐに逃げ出すだろう。乳母に捕まるくらいなら見知らぬ誰かに攫われる方がましだと抜かすくらいだ。また同じ状況になれば別の誰かに助けを求めるだろうし、次に会った人間が善人だとは限らない。


 と、なれば。


「……君の名前と目的は?」


 諦めが混ざったような声で青年は少女に尋ねた。思いもよらない質問だったのか、少女は青年の顔を見つめ返す。


「えっと……」


 少女はほんの少し悩み、やがて言い淀みながら答えた。


「市」

「イチ?」

「……今、城下町で開いている市場。お祭りみたいで楽しそうなの」


 そんなことで、と口から出かかった言葉を青年は飲み込んだ。たったそれだけの事が許されなかったから、少女はこうして出てきたのだろう。現に少女が今気まずそうにしているのも、自分の言っていることがどれだけ小さな望みか知っているからだ。


 市に行ってみたいという望みに対して、少女の賭けているものが自分自身の身の安全。どこか歪な天秤に青年は違和感を抱く。


「……あー、そのままこの城に戻らないってわけじゃないんだな?」

「うん。今日行って、帰ってくるだけ」

「誰かと逃げるとか、そんなのでもない?」

「そんな人、いない」

「本当に市に行くだけか?」

「うん」


 青年は溜息をついた。

 少女の願いはあまりにもちっぽけだ。青年が叶えてやれるくらいに。


「最善策はさっきの女性に引き渡すことなんだけどな」


 乱れた髪をかき上げて、青年は立ち上がった。


「わかった。君のことは内緒にする」

「……本当!?」


 青年の言葉に少女の顔がパッと輝く。華奢で、弱弱しくて、憂いを帯びた雰囲気から一転、少女は花が綻んだような笑顔を見せた。


「ただし、俺も連れて行くこと」

「えっ」


 笑顔が一瞬で固まり、青年の予想外の言葉に少女は黙り込む。


「それがダメならさっきの女性のところまで連れて行く」

「……わかった」


 少女は少し考え込んで、こくんと頷いた。それを見て、よし、と青年も頷く。


「ところで、名前は? さっきも聞いたけど、答えなかっただろ」

「あ、えっと、その……。……言いたくない」


 少女は再び押し黙る。儚げな見た目からは想像できないような強情さがこの少女にはあると、ほんの少しの付き合いだが青年は学んだ。


「俺はレイ」


 青年の言葉に少女はぱっと顔を上げる。その青い瞳を見つめながら青年は言った。


「こういう時はな、本当の名前を言わなくてもいいんだ。自分が呼ばれてるとわかる名前なら何でもいい」


 ぱち、と少女の目が瞬いて、考え込むように顔が俯く。やがて、少女は恐る恐るという風に顔を上げた。


「……ヴィ―」

「『ヴィ―』だな。……じゃあ、まず、あのおばさんから逃げ切らないとな」


 青年と少女——、レイとヴィーの背後から、またお嬢様ー! の声が聞こえてくる。


「早く逃げない、とっ……!」


 乳母の声を聞いて慌てるヴィーを、レイがヒョイと抱き上げる。ポカンとして丸くなった青い瞳を見て、レイはにやりと笑った。


「俺が悪い大人じゃなくてよかったな」

「……うん」


 タッと走り出したレイの肩にヴィーは腕を回す。ヴィーが走っていたときよりもずっと速く、乳母の声は遠ざかっていく。


 ようやく。ようやく少女は城を出れるのだ。偶然出会ったこの黒い騎士に連れられて。


 ようやく、長年の望みが叶うのだ。


 自分が走っていた時よりも、胸が強く高鳴るのは、きっとそのせいだ。

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