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終章

 魔界から戻り、ばたばたと幾日かが過ぎた。

 ゴールデンウイークの初日、綾香は中学の友人たちを誘って、遊園地へ行った。女子トイレで綾香の悪口を言っていたあのメンバーだ。

 誘いの連絡をするときはとても緊張した。でもみんな美里の身代金誘拐事件のことを知っていたから、悪口のことなど忘れたかのように、詳細をききたがった。

 誘拐事件が変なところで役立ってしまった。

 綾香は海に落ちて流されたあとヨットに拾われて、しばらく保護されていたことになっている。口裏を合わせてくれたヨットオーナーは、郷田川の卒業生だった。

 天徳公申貴天の人界進出は、市民レベルからじわじわ行き渡りはじめているようだ。

 犯人が行方不明なのでしばらく騒がれたけれど、美里も綾香も身代金もみな無事だったので、事件はあっという間に世間から忘れられた。

「楽しかったねー」

 遊園地での一日を終え、真理たちと別れて美里とふたりになった帰り路。

 四月の末は日が長くなっていて、まだ暗くなりきらない。よく晴れてあたたかかったから、今日の綾香は半袖だ。夕暮れの風は少し冷えてきて、肌にさらさらと心地いい。夏に向かうこの季節だけの、特別な空気。

「でも、びっくりしちゃった。綾香から真理たちを誘うなんて」

「だって、あのままだったらさみしいじゃない。みんなと仲直りできて、今日はうれしかった。がんばって海苔巻きいっぱいつくった甲斐があったよ」

 綾香は絆創膏を巻いた指を美里に見せた。調理中にうっかり包丁で切ってしまったのだ。

「綾香、今までとちがったね。実はあたし、綾香が真理の前で郷田川のこと話して、またムッとさせるんじゃないかってひやひやしてたんだけど」

 美里は眉を八の字にして苦笑いした。

「真理の気持ちも、ちょっとはわかるようになったっていうか……」

「どうしたの、急に大人になっちゃって」

「母さんが行方不明のとき、はじめておばあちゃんに会ったって言ったでしょ」

「うん」

「母さんの実家は旧家で、おばあちゃんは旧家の掟に縛られて生きてきた人だったんだよね……。ちいさいときから家とともに生きろって教え込まれてきたから、もう家訓はおばあちゃんの一部になってるんだって思ったの。それを、なにも背負わされてこなかったわたしが、どうこう言えることじゃないなって」

「うん」

「きょうだいが多い真理だって、わたしが背負ってないもの背負ってるんだよね……。わたしは、自分が努力さえすれば行きたい高校に行ける立場だったけど、真理の場合は自分が努力したってどうにもならなかったわけじゃない? そういうくやしさをどこかにぶつけたくなったら、わたしも真理と同じことしたかも」

「綾香はしないと思うけど。陰口じゃなくて直に言うでしょ。『わたしの前で郷田川の話すんな!』って」

「それ、もっと始末悪くない?」

「いえてる」

 綾香と美里は声をあげて笑った。

 そして美里の家の前まできたので、「じゃあまたね! バイバイ」と言って別れた。綾香は美里が玄関のドアに消えるまで、その後ろ姿を見送った。

 じゃあまたね。バイバイ。

 小学校一年生のときから、毎日毎日美里と交わした別れの言葉。

 じゃあまたね。

 綾香の目に涙が盛り上がった。

 郷田川理事長から言われた言葉がよみがえる。

「天界の調査では取りこぼされていたが、フィルの資料によると『仙ヶ崎』の寅彦、つまり君の祖父は両翼の魔族だった。伯爵と寅彦の血を引く君は、翼を発現する条件を備えている可能性がある」

 綾香は、自分の頬に手を当てた。

 ミラフに指摘されて以来、気になっていた傷の治りのはやさ。

 指に巻かれた絆創膏を震える手ではがす。

 包丁の傷はすっかり消えていた。

 ――翼を発現すると、傷の治りがはやくなる……。

 綾香にはまだ翼はない。

 けれど、背中の皮膚を引っ張られる感覚をときおり感じることがある。

 盛り上がった涙がひとすじ、つうっと頬を伝わった。

 いったいいつまで「またね」と言って美里の後ろ姿を見送れるんだろう。綾香はもう、美里とおなじ時間軸にはいないのかもしれない。美里が大人になって、結婚して、お母さんになっても、自分は美里とおなじではいられないのかもしれない。

 ミラフのように、自分は十代のまま。

(一緒に歳をとっていくと思ってたのに)

 彼氏ができたら紹介してね。結婚式ではスピーチしてね。子供が生まれたら、みんなでバーベキューしよう。もしも子供同士が結婚したらどうする? おばあさんになったら、一緒に温泉めぐりしようね。

 泡になって消えてしまった、楽しい未来。

「綾香」

 涙を流れるにまかせていたら、聞きなれたアルトの声で呼ばれた。ふりむくと、睦朗は綾香の涙を見てびっくりした顔をした。

「……どうしたんだよ。友達とケンカでもしたのか?」

「ううん。ちがうの。さみしくなっちゃっただけ」

 綾香はハンカチでごしごし目をぬぐった。

「さみしい? こんな目と鼻の先にいるんだから、いつだって会える相手じゃないか」

 睦朗が指差す先には、紀香のマンションが見える。

 マンションのてっぺんには、暮れかけた空にまたたく一番星。

「……そうだけどさ」

「どれだけその友達のこと好きなんだよ」

 睦朗はぷいっとそっぽを向くように方向転換して、すたすた早足で歩きだした。

 睦朗がここを通りかかったのは、綾香の家へ行くためだろう。今夜は、綾香の家で一緒に夕ご飯を食べる。母はいまごろ、弟のために料理の腕をふるっていることだろう。

 魔界で、おばあちゃんは話してくれた。

 母親から、お祖母さんから、曾お祖母さんから、赤目と鬼のものがたりを毎晩きいて育ったこと。古語を学ばされ、倉の古書を読むことを命じられていたこと。

 嫌じゃなかったんですかと綾香が訊いたら、おばあちゃんは言った。

「赤目のものがたりはね、よく読めば、何度も読めば、赤目がどんな思いで四羽村をつくったかわかるの。彼は妻をよろこばせたかったの。平和な村を築いて、妻におだやかな暮らしをさせたかったの。戦国の世だったからかしら……。彼は妻にしあわせになってほしかったのね。赤目は、妻が死んだあと自ら命を断ったらしいわ。……でもね」

 おばあちゃんは続けた。

「夫婦は最後までしあわせだったのかもしれない。けれど残された赤ノ倉の子孫は、土地を守るために大変な苦労をしたの。女しか生まれない家が、その家の存続にどれだけ奮闘したか……。赤目が死んでからのちの記録は、ただひらすら鬼の来訪を願うものだった。鬼に帰ってきてもらい、鬼と契って、男の子をもうける。その男の子は、初代のように家を盛り立てる力を持っているはずだから。赤ノ倉の女の願いは、それだけに集約されていったの……。戦後の農地改革で土地の多くを失ってから、赤ノ倉の伝説に対する執着は、時代に逆らってますます強まったの」

 私はその時代に生きた祖母と母に育てられたのよと、おばあちゃんはつぶやいた。

 仙ヶ崎家から婿入りしてきた寅彦は、伝説などくだらないと言いきって、紀香には古書に触れさせなかったという。

 綾香はおばあちゃんに、本家の古書を見せてくださいと頼んだ。

 触れておきたかったのだ。赤ノ倉家の歴史に。

 先祖の女性たちが生きた歴史に。自分がその先を紡ぐであろう歴史に。

 これから先を生きていくためには、これまでを知らなくては進めない。

 おばあちゃんはおどろいた顔をした。そして、すこし涙ぐんでから――やさしくうなずいてくれた。

 睦朗が「僕も一緒に行く」と言い出し、母も「ひさしぶりに私も帰郷する」と言い出し、父が「ゴールデンウイークだし、旅行だなっ」と言い出し、五月の連休にみんなで新潟へ行くことに決まった。

 なんだか家族旅行みたいだ。

 綾香は足をはやめて睦朗に並んだ。

 背の低い睦朗が、背の高い綾香の顔を見上げてくる。綾香はなんだかおかしくなった。

「なんだ、もう笑ってるじゃないか。なにがおかしいんだよ」

「父さんと母さんとわたしと睦朗が一緒にいたら、わたしたちきょうだいに見えるかな。お姉さんと……弟」

「……なんで弟」

「だってわたしのほうが誕生日はやいでしょ。身長だって……」

「おなじくらいじゃないか!」

「翼があるときだけでしょ、おなじくらいなのは」

 ものすごい不愉快そうな顔をして、睦朗は綾香をにらみつけた。

 こわい。

 実はお姉さんと妹と言いそうになったのだけれど、それは言わないでよかった……。

「今はまだ、弟でいいけどさ……」

「えっ、なんか言った睦朗?」

「なんでもない」

「なんか言ったでしょ?」

「なんでもないって言ってるだろ!」

 空に光るのは一番星、二番星。よく目を凝らせば三番星、四番星。

「魔界に星はなかったけど、天界にはあるのかなあ?」

「今度二木先生に訊いてみよう」

 綾香は睦朗とふたり、かすかに夏のにおいのする夜のはじまりの中を、ゆっくりと歩いていった。



                                  【END】




【同一世界観の作品】(キャラクターと時代は被りません)

『天使が愛したロマン主義者』

『片翼の迷路』 フィルの先祖にあたる堕天使の話です。全3回。

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