第7話:七海のスケッチ
夕闇が急速に街を飲み込み、高層ビルの窓明かりが新宿の空に冷たい幾何学模様を描き出すころ、亮平は本社ビルのフロアを逃げ出すようにして後にしていた。
頭蓋骨の内部では、昼間に営業三課の同僚たちから吸い取った醜悪な本音や裏切りのノイズが、濁った泥のようにドロドロと発酵し続けている。野村の嫉妬、佐伯課長の責任転嫁、佐藤の冷笑。そのすべてが脳内で反響し、正気を保つための理性の糸を音を立てて引き千切っていく。会社という社会の安全網は、もはや完全に崩壊していた。人間不信という名の精神分裂の地獄から逃れるように、亮平は電車を乗り継ぎ、自宅へと急いだ。
玄関の引き戸を開けると、我が家特有の温かな、それでいて底知れぬ甘酸っぱい匂いが鼻腔を突いた。
「おかえりなさい、あなた」
待っていたかのように、廊下の陰から妻の恵美がすうっと姿を現した。
シルクのブラウスにタイトなスカートという身なりでありながら、そのボタンは上から二つ外され、豊満な胸元と艶やかなうなじが無防備に露わになっている。恵美の瞳は、昼間の会社で疲弊しきった亮平の精神状態を正確に見透かすように、淫らに、そして母性を装った狂気で潤んでいた。
「顔色が最悪よ……。外で、いろんなものを聴いてきちゃったのね」
恵美は言葉を続ける間もなく、亮平の腕を引いてリビングへと連れ込み、その場に崩れ落ちるように座らせた。
そして、亮平のネクタイを乱暴にほどき、シャツのボタンを引き剥がすように外していく。
「ほら……私が、全部溶かしてあげるから……」
恵美の指先が、亮平の胸板から腹部へと這い下がり、硬くこわばった筋肉をねっとりとほぐしていく。会社の人間たちの悪意とノイズにまみれ、すり潰されそうになっていた精神が、恵美の圧倒的な肉欲の愛撫によって強制的に引っ張り出される。
亮平は、その背徳的なまでの快楽に逆らうことができなかった。会社という地獄から逃げ帰ってきたこの家こそが、自分を受け止めてくれる唯一の場所であると同時に、さらに深い狂気へと自分を縛り付ける逃れられない澱であることを知りながら、亮平は恵美の柔らかい身体にしがみつき、その胸元に顔をうずめた。
恵美の口づけと愛撫は、会社でのトラウマや人間不信の吐き口として、亮平の歪んだ欲望を容赦なく刺激し、全肯定していく。
「そうよ、外の人間なんてどうでもいいわ。あなたを狂わせるものは、全部ここで私にぶつけなさい……」
恵美の淫らな囁きと、熱を帯びた肉体の温もりに溺れながら、亮平は思考の主導権を完全に手放していく。外の恐怖から逃れるための麻薬として、恵美の肉体にしがみつくことだけが、今の亮平の唯一の救いだった。
だが、その甘美な愛撫の嵐が一段落したとき、奇妙な静寂が家を包んだ。
恵美は息を整えながら、「少し休んでいてね。七海の部屋にプリントを届けに行ってくるわ」と立ち上がった。
一人残されたリビングで、荒い息をつく亮平の背筋に、ふと冷たいものが走った。
(七海……)
子供部屋のドアが、ほんの少しだけ開いている。
廊下から漏れる薄明かりに導かれるように、亮平は吸い寄せられるようにその部屋の前へと歩み寄った。恵美はまだ階下にいるのか、姿は見えない。亮平は音を立てぬよう、そっと子供部屋のドアを押し開いた。
部屋の中は綺麗に片付けられていた。
ピンク色のカーテン、小さなベッド、そして勉強机の上。
そこに、一冊のスケッチブックが無造作に開かれたまま置かれていた。
亮平は足音を殺して机に歩み寄り、そのページに目を落とした。
「――っ……!!」
息が止まった。
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたような、凄まじい悪寒が全身を駆け抜けた。
ページいっぱいに描かれていたのは、およそ7歳の子供が描くような絵ではなかった。
クレヨンと黒い絵の具でグロテスクに描き出されていたのは、かつて赤ん坊のときに異常増殖の果てに崩れ散り、自壊したはずの「自分自身の肉片」の記憶だった。
いや、それだけではない。そのドロドロに溶けた肉片のあちこちから、無数の「人間の耳」が気味悪く芽吹き、蠢いている姿が生々しく描写されていた。
さらにページをめくると、そこには信じられないものが描かれていた。
人間の男性の姿――それは明らかに、会社から帰ってきたばかりの亮平自身の姿だった。その亮平の背中に何本のチューブのようなものが繋がり、彼の右耳から伸びた肉芽が、机の中心に描かれた七海へと栄養を送り届けている。
『おとうさんを、つぎのきに育てる』
そう、稚拙な、しかし絶対的な冷酷さを宿したひらがなで、禍々しく書き殴られていた。
亮平の足がガタガタと震えた。
自分が会社で受けたストレスも、耳の奥の変異も、恵美との情事の数々も、すべてはこの少女の掌の上で「飼育」され、計画通りに進行しているプロセスに過ぎなかったというのか。
そして、それ以上に亮平の脳裏を突き刺したのは、もっと根本的な、覆い隠せない「矛盾と恐怖」だった。
(待て……七海は、本当に7歳なのか……?)
亮平は記憶を必死に手繰り寄せた。
先輩が謎の変死を遂げたのは、今から7年前だ。その葬儀の席で、恵美が抱いていた赤ん坊が七海だったはずだ。
だが、亮平自身が恵美と正式に婚姻届を出し、この家で本格的に同居を始めたのは、先輩への後ろめたさや世間の目を気にした結果、数年ほど前のことだ。それ以前の数年間、亮平は半同棲のような形で恵美と七海に関わってきた。
頭の中で、時間の計算が狂い始める。
もし七海が、先輩が死んだあの葬儀のときに生まれた赤ん坊なのだとしたら、今の彼女はとうに10歳を超えていなければならないはずだ。小学校の高学年に差し掛かる年齢の子供であって然るべきだ。
それなのに――。
目の前にいる七海は、当時から見た目も、その幼い容姿も、年齢の肉体的成長の痕跡すらも、一切変わっていないように見えた。
いや、正確には、あの赤ん坊のときに「肉が溶けかけ、崩れ散った」はずの存在が、何の成長のステップを踏むこともなく、ある日突然、今の「7歳の少女の姿」のまま固定され、そこから一歩も年齢を重ねていないのではないか。
背筋の凍るような戦慄が走った。
七海は、人間ではない。成長もしなければ、老いることもない。あの崩壊した肉塊から、特定の「幼い姿」を依り代として再構築され、そのままの姿で何年も、あるいは何十年もこの世に君臨し続けている化け物なのだ。
その時、背後で、カタリと音がした。
振り返ると、開いたドアの隙間に、小さな人影が立っていた。
七海だった。
いつからそこにいたのか。七海は音もなく部屋に入り込み、自分の描いた禍々しいスケッチブックを覗き込んでいる亮平を、じっと見つめていた。
逃げ出したい。今すぐこの部屋から飛び出し、家を出ていきたい。
だが、亮平の足は床に縫い付けられたように動かなかった。恐怖で声も出ない。
七海はスケッチブックを覗き込む亮平を見上げても、慌てて隠すような素振りすら見せなかった。むしろ、自分の描いたグロテスクな計画の絵が父親に見つかったことに対して、隠すどころか、楽しげに、わずかに口角を上げて微笑んだのだ。
その無邪気で、しかし底知れぬ冷酷さを湛えた笑顔に、亮平は圧倒された。
「おとうさん、それ、見てたの?」
七海の声は、どこまでも澄み切った鈴の音のようだった。
しかし、その言葉の裏にある重圧は、鉛のように亮平の脳髄を押し潰していく。
「な……これ、は……七海、お前……いったい……」
亮平が掠れた声で絞り出すと、七海はトコトコと軽やかな足取りで近づいてきた。
そして、亮平の前に立つと、背伸びをして彼の右耳の裏側に、そっと小さな指先を触れさせた。
冷たい。
氷のように冷たい指先が、耳裏の無数の孔に触れる。その瞬間、亮平の脳内で、先ほどまで恵美の愛撫で忘れかけていたはずの「異物の胎動」が、激しい疼きとともに再発した。
「見てたんでしょ? あたしが、おとうさんをどうやって大きくするのか」
七海はあどけない顔で首を傾げた。
その瞳の奥には、人間を人間とも思わない、圧倒的な捕食者の冷気が渦巻いていた。自分の秘密のスケッチを見られてもなお微動だにせず、むしろそれを父親に見せつけることで、彼の恐怖と支配欲をさらに煽り立てようとしている。
恐怖。それと同時に、亮平のねじ曲がった精神の奥底で、奇妙な熱が疼き始めた。
(この子は……人間ではない。俺は、こんな化け物に飼われているのか……!)
七海に対する恐怖は頂点に達していた。しかし、同時にその圧倒的な超越性と冷酷さに触れた瞬間、亮平のなかで、別の「邪念」が鎌首を持ち上げていた。
――この幼い姿をした神ごとき存在を、自分の肉体と欲望で汚してみたい。
――あの冷酷な瞳を、快楽の涙と絶望で歪ませ、自分のものとして陵辱し尽くしたい。
恵美の肉体に抱かれ、外の社会から完全に遮断されたこの家の中で、亮平のなかにある「父親としての倫理」は、音を立てて完全に死滅しつつあった。
「おとうさん……もっと、耳の奥を深くしてよ。そうすれば、あたしの声が、もっとたくさん聞こえるからさ」
七海の甘い囁きが、亮平の鼓膜を直接揺らす。
恐怖と、背徳と、そして狂気的なまでに膨れ上がった欲望が、亮平の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼を完全に狂喜の世界へと引きずり込んでいくのだった。




