第6話:鼓膜の奥の舌
午前九時十五分。
新宿副都心にそびえ立つ大手商社、その本社ビル十六階に位置する営業三課のフロアは、無機質な蛍光灯の光と、数台の大型空気清浄機が発する低い駆動音に包まれていた。
亮平は、営業三課の係長として、島型に配置されたデスクの最も奥、窓際の席に座っていた。
パリッとしたネイビーストライプのスーツに身を包み、整えられたネクタイ。一見すれば、仕事ができ、家庭円満な38歳の有能な中堅社員の姿そのものだ。だが、その背広の下の皮膚と、頭蓋骨の内部で起きている変異の足音は、すでに人間の領域を完全に踏み外していた。
(……痛む)
右のこめかみから耳の周辺にかけて、ズキズキと神経を逆撫でするような鈍痛が走る。
昨夜、自宅の寝室で恵美の肉体を貪り尽くし、背徳の絶頂で脳髄のタガが外れたはずだった。しかし、朝を迎えて会社に足を踏み入れた瞬間から、亮平の右耳の奥にある「器官」は、昨夜よりも遥かに高い覚醒度で脈打っていた。
耳孔の奥に潜む「歯」が、カチリ、と微かに噛み合う。
それだけではない。今朝は、その奥からさらに異質な感覚が這い上がってきていた。
湿った、筋肉質の感触。
――舌だ。
人間のものではない、小さく、しかし異常に発達した生温かい「幼い舌」が、耳の鼓膜の裏側で、にゅるりと這いまわるような気配を放っている。唾液を飲み込むたびに、右耳の奥から「ぬちゃり」という生々しい水音が、直接脳のなかに反響した。
「……係長。例の三井物産の案件、見積書の修正、これでよろしいでしょうか」
斜め前の席から、入社三年目の若手社員・野村が声をかけてきた。
誠実そうな笑顔を貼り付け、書類を差し出す野村。営業三課の誰もが、野村のことを「真面目で気の利く若手だ」と評価していた。亮平自身も、昨日の朝まではそう思っていた。
だが、違った。
野村が口を開き、その言葉が空気の振動となって亮平の右耳の鼓膜を叩いた瞬間、通常の「声」の裏側から、おぞましいまでの濁った「本音のノイズ」が、直接脳髄へと雪崩れ込んできた。
(――くそ、このハゲ親父……。昨日の飲み会で俺の企画を横取りしやがって。早く課長に昇進してこの部署の主導権を握りつぶしてやりたいんだよ。早く左遷されちまえ……)
ガツン、と頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「っ……!」
亮平は思わず両手で机の端を掴み、冷や汗を拭った。
声の主である野村は、相変わらず穏やかな笑顔を崩していない。「係長? お加減でも……」と言葉を続ける野村の表層の言葉とは裏腹に、その脳内で渦巻いているドロドロとした嫉妬、殺意、嘲笑の濁流が、亮平の右耳の奥の「舌」によって舐め取られ、脳の言語野へと直接翻訳されて流れ込んでくる。
聞こえる。
周囲の人間が、口では「お疲れ様です」「ありがとうございます」と愛想笑いを浮かべながら、その内側でどれほど醜悪な毒を吐き散らしているか──それが、すべて丸裸になって脳に突き刺さる。
(この会社は、地獄だ……)
亮平は冷や汗を拭いながら、フロア全体を見回した。
課長の佐伯(51歳)が、コーヒーマグを片手に資料を目で追っている。
表向きは穏やかで人望の厚い上司として知られる佐伯の脳から漏れ聞こえてくるのは、あまりにも醜悪な隠し事だった。
(――今度の監査、うまく裏帳簿をごまかせるか……。万が一バレたら、あの野郎(亮平)にすべての責任を擦り付けて、俺一人だけ逃げ切る手はずは整えてある。家庭でも愛人に逃げられそうだし、もうどうにでもなれ……)
隣の島の女性事務員、佐藤(29歳)の席からも、毒気を含んだ本音が波のように押し寄せる。
(――あの係長、最近やけに肌艶が良くて気味悪いわね。奥さんとあんなふうにラブラブなフリして、どうせ裏ではキモい性癖隠してるんだわ。早く消えないかな、この席……)
同僚たちの声、息遣い、キーボードを叩く乾いた音。そのすべてが、右耳の奥で増幅され、レイヤーとなって亮平の精神を内側から食い破っていく。
逃げ場がない。
かつて、この会社のオフィスは、家庭の狂気や背徳の欲望から逃れるための「唯一の隠れ家」であったはずだった。昼間の静かなデスクワークに没頭している間だけは、耳の奥の異変も、七海の冷酷な瞳も、恵美の淫らな誘惑もすべて忘れ去り、「普通の社会人・亮平」でいられた。
だが、その最後の防壁が、いま音を立てて崩れ去った。
家庭から逃げ込んできたはずの会社こそが、人間たちの欲望と悪意が煮え滾る、さらなる深層の地獄だったのだ。そして、自分の右耳に寄生した怪物は、その人間の隠し事や醜悪な本心を餌として欲し、さらにその感知能力を恐ろしいほどに研ぎ澄まさせていく。
(やめろ……もう聞かせるな……!)
亮平は両手で両耳を強く塞ぎ、デスクの上で身体を丸めた。
だが、耳を塞いでも意味はない。骨伝導を通じて、他人の醜い欲望の囁きは、脳の芯を直接かき混ぜるように響き渡る。
「……係長? 本当に大丈夫ですか?」
心配そうに近づいてきた野村の手が、亮平の肩に触れた。
その瞬間、野村の脳内から噴き出した「早く倒れて救急車で運ばれろ、そしたら俺が主導権を握れるのに」という生々しい殺意のノイズが、亮平の右耳の奥の「舌」を激しく刺激した。
カチリ。
耳の奥で、歯が鋭く鳴った。
同時に、耐えがたき頭痛の果てに、奇妙な熱が下腹部へと急降下していく。
(……なんだ、これ……?)
恐怖と精神分裂の極みに達しているはずの脳髄の片隅で、なぜか底知れぬ「性的興奮」がじわりと発火した。
他人の隠し事。人間の裏切り。知られざる性の秘密、誰にも言えない屈折した欲望の数々──。
同僚たちが隠し持っている、世間に知られたら破滅するような醜い秘めごとを、自分の耳が一つ残らず暴き出し、舐め取っていく。その背徳感と全能感が、亮平の歪んだ精神を狂おしく刺激していた。
昨日、恵美のアナルを陵辱し、背徳の快楽に溺れたあの感覚と、同じ種類の熱が全身を駆け巡る。
人間不信の地獄の底で、亮平のなかで変異した狂気は、もはや恐怖ではなく、一種の「極上の悦楽」へと変質しつつあった。
「……野村君」
亮平はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は充血し、焦点が定まっていなかったが、その表情にはかつての気弱なサラリーマンのものではない、冷酷で異様な艶が宿っていた。
「……資料、これでいいよ。君の言う通りだ」
「は、はい……失礼します」
亮平の異様な視線と、からみつくような声色に気味の悪さを感じたのか、野村はわずかに顔を引きつらせながら自分の席へと引き返していった。野村の背中から漏れ聞こえる(なんだあいつ、気持悪……)という悪態さえも、いまの亮平にとっては、心地よい愛撫のように脳髄を潤すスパイスでしかなかった。
(そうだ……みんな、隠しているだけで、心の底では狂っている)
佐伯課長も、佐藤も、このフロアにいるすべての人間が、それぞれの歪んだ欲望と秘密を抱えて生きている。
そして、自分は、そのすべての人間の内側を暴き、支配するための「特別な耳」を手に入れたのだ。
家庭の外にあるはずの社会という安全網が、完全に崩壊した。
逃げ場を失い、人間不信という名の精神分裂の淵に突き落とされた亮平のなかで、恐怖の殻が完全に砕け散る。
その空洞を満たしたのは、もはや「人間としての倫理」ではない。
さらに上位の存在──あの家で自分を待ち構えている「主」、七海という絶対的な幼き君主に対する、底知れぬ貪欲な従属と、さらなる狂気への渇望だった。
(早く……あの家へ帰りたい)
夜の帳が下りるのを待たずして、亮平の精神は完全に「こちら側」へと引きずり込まれていた。
昼間の会社という最後の逃げ場を失った男が、狂気と淫悦の混ざり合う家庭の主のもとへ、自ら進んで身を投じるための準備は、こうして完全に整ったのだった。




