第4話:消えた新生児の記憶
冷え切った朝の光が、寝室のフローリングに白い線を引いていた。
シーツの隙間から這い出た亮平は、全身の気だるさと、昨夜の狂宴の残滓にまみれた筋肉の痛みに顔を歪めた。隣のベッドでは、恵美がまだ微睡みの中にいる。シルクのネグリジェがはだけた白魚のような肢体は、昨日よりもさらに生々しい艶を帯びていた。
だが、亮平の胸の奥で渦巻いていたのは、心地よい気だるさではなく、じっとりと冷たい鉄錆のような恐怖だった。
浴室の鏡に向かい、冷水を顔に浴びる。 濡れた髪をかき上げ、鏡に映る自分の右耳をまじまじと見つめた。一見して異常はない。だが、耳たぶの裏側に指を這わせると、ぽつぽつと並んだ無数の孔から、わずかにねっとりとした透明な体液が指に付着した。耳孔の奥では、小さな歯がカチリと生硬な微動を打つ。
(俺の体は、一体どうなっている……?)
それだけではない。昨夜の甘美な快楽の裏で、脳裏の片隅にこびりついて離れない「記憶の破片」が、チクチクと神経を逆なでしていた。
七年前――あの先輩が謎の変死を遂げる直前、彼はまだ生まれたばかりだった七海のことについて、生前酒の席でぽつりと語っていたことがあった。 亮平自身は、その出産の現場に立ち会っていたわけではない。だが、先輩が青ざめた顔でこう言っていたのを、今になって鮮明に思い出す。
『あの子が生まれたとき……産室で、肉が勝手に膨らんで、まるで自壊するかのようにドロドロに溶けかけたんだ……。人間の形を保っていられなかった……』
先輩は、酒に酔った手で自分の頭を抱えながら、どこか恐怖に怯えるような、それでいて奇妙に狂った目をしてそう漏らしていた。当時の亮平は、先輩が仕事のストレスか何かで見ている悪夢の類だろうと聞き流し、深く追求しなかった。
だが、その数日後、先輩は両耳の軟骨を自らの手で削ぎ落とすという凄惨な変死を遂げた。
(あれは……本当だったのか……?)
脳裏に蘇る、先輩の怯えた言葉。そして今、自分の右耳で実際に起きている悍ましい変異。 死んだはずの先輩が語っていた悪夢の続きが、今度はそのまま、自分の肉体にそっくりそのまま降りかかっているという事実。それがどれほど恐ろしく、逃げ場のない呪いであるか。亮平の背筋を、凍りつくような戦慄が駆け抜けた。
現実と記憶の辻褄が狂っている。自分が愛し、欲望の対象として飼いならしているはずの家庭は、最初から底知れぬ底なし沼の上に築かれていたのではないか。
恐怖で足がすくみ、息が詰まるような眩暈に襲われながら、亮平は足早にリビングへと向かった。
リビングの温かな空気と、香ばしいトーストの匂いが鼻を突く。 ダイニングテーブルの席では、恵美がエプロン姿で朝食の準備をしていた。その身のこなしは完璧な良妻賢母のそれでありながら、どこか機械的な、あるいは妖しいまでの美しさを纏っている。
そして、その反対側の椅子のほうに、七海が小さく行儀よく座っていた。
「おはよう、おとうさん」
七海が振り返り、あどけない笑顔を向けた。 薄桃色のワンピース、きれいに梳かされた黒髪。どこからどう見ても、愛らしい7歳の少女だ。しかし、亮平の脳裏には、先輩が語っていた「肉が溶けかけた赤ん坊」の記憶が生々しく重なり、鳥肌が立った。
「な、……七海……」
亮平が掠れた声を漏らした瞬間、恵美の動きがぴたりと止まった。
カチャリ、と恵美が手にしていたバターナイフが皿の上に置かれる。その音は妙に冷たく、リビングの空気を一変させた。
恵美はゆっくりと振り向くと、優しい母親の笑みを湛えながら、静かに娘に呼びかけた。
「七海ちゃん、朝ごはんのパン、焼けたわよ。」
七海ちゃん。 恵美はいつも通り、愛おしげな母親の声でそう呼ぶ。だが、その言葉の裏に隠された、底知れぬ冷酷な同調。この家庭の真の重心がどこにあるのかを、亮平は肌で感じ取っていた。
主従関係。 この家庭の主人は、自分でも、恵美でもない。あの、赤ん坊のときに異常増殖の果てに崩れかけ、そこから何か別のものとして「再構築」されたこの少女――七海こそが、この狂気の巣窟の絶対的な中心なのだ。
「おとうさん、どうしたの?」
七海が椅子からすっと滑り降り、音もなく亮平の足元へと歩み寄ってきた。 その小さな足取りは軽やかで、しかし地平を這う蛇のような重圧を伴っていた。
七海は亮平の前に立つと、背伸びをするようにして、ぐっと顔を近づけてきた。 甘いミルクの匂いと、微かに混じる異様な、生臭い体液の匂い。
「顔色がすごく悪いよ。……昨日の夜も、おかあさんと変な声で鳴いてたでしょ?」
幼い唇から放たれたその言葉に、亮平は心臓を鷲掴みにされたように凍りついた。昨夜の寝室での生々しい交わり、激しい喘ぎ声のすべてが、この7歳の少女の耳に届いていたというのか。いや、それどころか、彼女はそのすべてを冷徹に把握し、楽しんでいたのだ。
「な、何を……」
言葉を失う亮平の前に、七海は小さな手を伸ばした。 その指先が、亮平の右耳のたぶに、冷たく触れた。
「ここのね、耳の裏の穴……」
七海がクスクスと、鈴を転がすような、しかし底知れぬ冷酷さを湛えた笑い声を漏らす。
「もっと、たくさん育てて。あたしの声が、おとうさんの脳みそに直接届くようにさ。……もっと、深いところまで穴を開けてよ」
それは命令だった。 あどけない少女の姿をした存在が、絶対的な権力をもって下した、神聖にして残酷な神託。
亮平の全身の血液が逆流した。恐怖で逃げ出そうとする足が、まるで床に釘付けにされたように動かない。これは現実なのか、それとも狂気が生んだ悪夢なのか。先輩が味わった絶望と同じ恐怖が、今まさに自分を飲み込もうとしている。
その時だった。背後から、しなやかな腕が亮平の首元に回された。
温かく、それでいて妖艶な体温。恵美が、うっとりと目を潤ませながら亮平の背中にぴったりと体を寄せ、その耳元に艶めかしい唇を這わせた。
「そうよ、あなた……七海ちゃんのお願い、聞いてあげて……」
恵美の声音は、悪魔的なまでの甘さと色香を帯びていた。 その指先が、亮平のシャツの合わせ目を無理やり開き、その胸板をねっとりと撫で下ろす。昨夜の激しい交わりで植え付けられた肉欲の記憶が、恐怖でこわばる亮平の身体を内側から無理やり再起動させる。
どれほど恐ろしい怪異に巻き込まれようとも、先輩のたどった末路を思い出して気が狂いそうになろうとも――亮平は、この恵美の放つ圧倒的な色気と、自分を束縛して離さない肉体の温もりから、もう一歩たりとも逃れることができないと悟っていた。仮にこの家が地獄の底であっても、恵美に抱かれ、その蜜に溺れ続けることだけが、今の亮平にとって唯一の救いであり、麻薬だったからだ。
「私を見て……もっと私をめちゃくちゃにして、七海ちゃんを喜ばせるのよ。……あなたには、私がいるでしょう?」
恵美の瞳は淫らに据わり、夫を地獄の底へと引きずり下ろすための、甘美な罠の輝きを放っていた。
恐怖。背徳。狂気。そして、逃れられない肉欲の泥沼。
亮平は、七海の冷たい瞳に見据えられながら、背後から恵美の豊満な身体に絡め取られ、自分の意思とは無関係に、その狂信的な輪の中へと、さらに深く、深く沈み込んでいくのだった。




