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執務室にて、私は一通の報告書を受け取った。封はされていない。内向きの報せ――つまり、噂をまとめたものだ。
私は目を通し、わずかに眉を動かした。
「……教会内でも、割れているか」
低く呟く。控えていたマルクが、静かに口を開いた。
「はい。下の聖職者ほど、反発が強いようです」
「だろうな」
私は紙を机に置いた。
「金も流れも奪われた形だ。面白いはずがない」
報告には、はっきりと書かれていた。
寄進の減少。巡礼の導線の変化。現場の不満。中には露骨な言葉もある。
「教会を通らずに癒やされるなど、あってはならぬ」
「あの王子は、信仰を軽んじている」
私は小さく息を吐いた。
「……当然だ。だが、上は違うだろう」
マルクが、わずかに顔を上げる。
「はい。司教座は、受け入れる方向で動いております」
私は頷いた。マルクが、慎重に問う。
「……よろしいのですか」
「何がだ」
「教会に、入り込まれる可能性です」
私はわずかに口元を歪めた。
「承知の上だ」
……教会は、敵ではない。だが、味方でもない。利用する。そして、向こうも同じことを考えている。
「まあ、いい。揉めるのは、どこでも同じだ」
視線を戻す。
「現場は怒る。上は飲み込む」
それだけの話だ。そして。
「医学大学は、すでに動き出している」
静かに言った。
数日後。
私は、新たな布告文に目を通していた。
羊皮紙に記された文字は、簡潔だが重い。
「……これでいい」
短く呟く。
マルクが一歩進み出る。
「都市条例、でございますか」
「ああ。大学を作っても、人が集まらねば意味がない」
私は頷いた。
「ならば集めるだけでなく、留まらせる必要がある」
机の上の布告を指でなぞる。
「そのための“守り”だ」
マルクは黙って耳を傾けている。私は続けた。
「まず、医師と学者」
一行を指で叩く。
「この地に招かれた者に対し、身分の保証を与える。外から来た者であろうと、不当に捕縛されぬ。過去の出自も問わぬ。そして、研究と診療の自由を認める」
マルクの目が、わずかに細まった。
「……かなり踏み込んでますね。それはつまり、誰であろうと受け入れるということです」
低く言う。
「流れ者、罪を逃れた者、あるいは……教会に睨まれている者すら、紛れ込むやもしれません」
マルクは 視線を上げた。
「しかも、捕縛を禁じるとなれば、手出しも難しくなります」
室内の空気が、わずかに張り詰めた。
「加えて研究と診療の自由を認める、ということは……」
言葉を選ぶように、わずかに間を置いた。 「教会の教えと衝突する可能性もございます。……危険では、ありませんか」
私は、わずかに息を吐いた。
「危険だな」
あっさりと認める。
「だが、それでいい」
視線をマルクに向ける。
「安全すぎる場所に、人は来ない。縛りの多すぎる場所にも、人は残らない」
静かに言う。
「だから、逆にする」
机を指で軽く叩く。
「自由を与える。その代わり、ここを選ばせる」
マルクの目が、わずかに見開かれた。
「守る代わりに、離さぬ。それだけの話だ」
私は一度視線を落とした。
「……学生については」
私は一行を指でなぞった。
「学ぶ意思がありながら金のない者もいる。そういう者は、こちらで抱える」
マルクがわずかに顔を上げる。
「……抱える、とは」
「食事と寝床を与える。学費も取らない」
室内に、わずかなざわめきが走る。私は続けた。
「ただし、条件はつける。学を修めた後、この地に仕えさせる。医師でも、書記でもいい。仕える形で返させる」
沈黙。
「……囲う、のですね」
誰かが小さく呟く。私は否定しなかった。
「そうだ。才能は放っておけば他へ流れる。ならば、先に取る」
「……商人については」
マルクが促すように言う。私は、わずかに口元を緩めた。
「優遇する。一定期間、関税と市税を免除する」
役人の一人が思わず顔を上げる。
「免税、でございますか」
一瞬の沈黙の後、別の役人が慎重に口を開いた。
「……しかし殿下、それでは税収が立ちません。他の商人からの不満も出ましょう」
私は視線を向けた。
「最初から取れるものなど、ない」
机を軽く叩く。
「ならば、まず人を呼び込む。人が来れば商いが生まれ、商いが増えれば人も増える」
役人は押し黙る。
「免除は永遠ではない。根が張れば、いずれ刈り取れる」
私は淡々と言った。
「その頃には、この地は“選ばれる場所”になっている」
私は最後の一文に目をやった。
「この地に来る者は、すべて保護される。身分に関わらず、不当な暴力と搾取から守る」
ゆっくりと読み上げた。
一人が、わずかに眉を寄せた。
「……殿下、それを維持するには、相応の兵と費えが必要かと」
「それでも、だ」
「……見合うだけの利がある、と?」
「ある。人が来る」
マルクはわずかに目を伏せた。
「……布告の準備を進めます」
私は小さく頷いた。
「広く出せ。噂でもいい。商人に届けば、それで十分だ」
マルクは顔を上げた。
「……宮廷伯の爵位の名は、やはり重いものですね」
「……そうだな」
椅子にもたれ、息を吐く。
「名だけではない。大国の後ろ盾だ。商人も、教会も、無視は出来ん」
……人は、理由があって動く。安全。利益。機会。それが揃えば、勝手に集まる。
「これならば、来るだろう」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
数日後。
教会より使者が到着した。携えていたのは、司教座の印章が押された書状。
内容は簡潔だった。
――医学大学の設立を認可する。
「……さすがだな。利は、見誤らぬか」
私は、小さく呟いた。
こうして――領地は、望む形へと動き始めた。
しかし、その場にいた誰もが同じことを考えていたわけではない。
執務室を出た後、マルクは一人、廊下を歩いていた。足音だけが、石の床に静かに響く。
「……やり過ぎです」
小さく、呟く。
身分の保証、出自不問、捕縛の制限、研究と診療の自由、商人への免税。そして無条件に近い保護。
どれも、一つ一つが重い。
「一つでも綻べば……」
言葉は、最後まで続かなかった。
……抱えきれるのか?
足を止める。殿下は分かっている。その上でやっている、だからこそ。
「……止まらない」
苦く、息を吐く。
それでも、マルクは歩き続ける。
「……支えるしかない」
静かに、呟く。
それが、自分の役目なのだから。




