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協議から、数日後。
私は再び、教会の印が刻まれている一通の書状を受け取った。前回の会談は、互いに譲らず、言葉だけが重なった。
……あれでは進まない。
机の上に置かれた書状を指で押さえる。封はすでに切ってある。
――条件について、再考されたし。
「……足りない、か」
私はゆっくりと息を吐いた。
「教会の力を、見誤っていたな」
転生前の知識が、邪魔をする。制度も、理屈も分かっているつもりだった。だが、ここでは違う。信仰は、制度ではない。人を縛る“力”そのものだ。
「……妥協点を探るか」
低く呟き、背もたれに体を預けた。
譲れないものはある。だが、すべてを通そうとすれば、何も通らない。だからといって、力や権威で捻じ伏せるものでもない。
それでは、いずれ歪みが生まれ、やがては破綻する。
あれを教会の枠に閉じ込めれば、先はない。
祈りに戻れば、また同じだ。
「形は、くれてやる」
静かに言った。私は身を起こした。
「マルク」
控えていた彼が、すぐに一歩進み出る。
「教会への返書だ」
短く言う。
「教会の関与を認める」
「……関与、ですか」
「ああ」
私は頷いた。
「講義の一部。規律の監督。名目上の後援」
一つずつ並べる。
「好きにさせてやる」
マルクが息を呑む。私は続けた。
「ただし、医療の実務には絶対に口を出させるな。記録もだ」
静かな声で言う。
「それが、こちらの譲れない条件だ」
マルクは深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
……祈りでは、救えないものがある。それを、私は知っている。だから。ここは、“治す場所”にする。
たとえ、その名がどう呼ばれようとも。
石造りの聖堂の奥。
前と同じ、小さな会議室。蝋燭の火が、静かに揺れている。机の上には、一通の書状。開かれたまま、置かれていた。
「……読んだな」
司教が、低く言った。誰も答えない。だが、全員が目を通していた。やがて、一人の聖職者が口を開く。
「大学の設立は、認めるしかない……か」
苦々しい声だった。
「その代わり、教会は関与できる」
別の者が続ける。
「講義への参加。規律の監督。名目上の後援……。しかし、中身は、渡さぬと来た」
誰も否定しなかった。
「医師の選定も、記録も、研究も……すべて王子側」
「治療には口を出すな、か」
小さく笑う者がいた。
「都合のいい話だ」
だが、その声には苛立ちよりも、考える色が強かった。沈黙が続く。
やがて、年嵩の司祭がゆっくりと言う。
「……悪くない」
視線が集まる。
「何だと?」
若い聖職者が思わず声を上げた。司祭は、静かに続ける。
「表に我らの名が出る。人は集まる。学者も、貴族も、巡礼もだ。その中心に、教会がある形になる」
「……だが、実権はない」
若い聖職者が低く言う。司祭は首を振った。
「今は、だ」
その一言で、空気が変わる。
「場が出来れば、人が集まる。人が集まれば、影響は生まれる」
ゆっくりと指を組む。
「講義に入ることを許されたのだ。ならば、入り込める」
別の聖職者が、慎重に言う。
「……いずれ、取り込むと?」
司祭は答えなかった。だが、わずかに目を細めた。
「それに。医の成果が出れば、その名は教会にも乗る」
小さなざわめきが起きた。
「……なるほどな」
誰かが呟く。
「完全に拒めば、すべてを失う。だが、関われば、残る」
やがて、司教が口を開いた。
「王子は、譲っていない。だが、閉じてもいない」
司教は皆を見た。
「門は、開いている」
ゆっくりと書状に手を置く。
「ならば、入る」
短く言った。誰も反対しなかった。
そして最後に、司教が静かに結んだ。
「……これなら、損失はない」
蝋燭の火が、小さく揺れる中、ふと、一人の聖職者が低く口を開いた。
「……あの王子ですが」
視線が集まる。
「噂は、耳にしておられるでしょう」
誰も否定しない。
「側近の矢傷を癒やした件。大国にて宮廷伯の爵位を得た件。そして、この地で、倒れていた者を救ったという話」
部屋に、わずかなざわめきが走った。若い聖職者が、眉をひそめる。
「ただの噂ではないのか」
「違う」
短く返したのは、別の男だった。
「商人も、巡礼も、同じ話をしている。細部に違いはあれど――結果は同じだ。治した、と」
その言葉は、重かった。
年嵩の司祭がゆっくりと言う。
「それが祈りによるものならば、問題はない。……だが、違う」
空気が、わずかに張り詰めた。
「……危ういな」
誰かが低く言った。
「もし、それで人が救われるならば?」
言葉が、宙に残る。否定も、肯定もされない。やがて、司教がゆっくりと口を開いた。
「だからこそだ」
全員の視線が集まる。
「放置は出来ぬ」
静かな声だった。
「異端であれば、正す必要がある。しかし、正しきものであれば、導く必要がある」
蝋燭の火が揺れる。
「いずれにせよ、目を離すべきではない」
周りを見渡し、司教はゆっくりと口を開いた。
「……もう一つ、見過ごせぬ点がある。人の流れだ」
低い声だった。
「あれで、巡礼は減り、寄進も減るだろう。この地に来る者は、祈りではなく、癒やしを求める」
誰も否定しなかった。
「金もまた、同じだ」
指先で机を軽く叩く。
「宿、食事、薬……すべてが、あの手で回り始めている」
一人の聖職者が、低く言う。
「……教会を通らぬ、流れですな」
司教は頷いた。
「そうだ。しかし」
その声に、わずかな強さが乗る。
「巡礼は、導かれるものだ。ならば導け」
誰かが、息を飲んだ。
「この地に来る者すべてに、教会を経させる。祈りを経てから癒やしへ向かわせるのではない」
蝋燭の火が、一瞬強くなった。
「癒やしの後に、祈らせる」
小さなどよめきが起きた。
「……順序を、逆にするのですか」
「順序など、形に過ぎぬ」
司教は言い切った。
「重要なのは、“教会を通った”という事実だ」
誰もが、司教を見ていた。
「湯で癒やされようと、薬で治ろうと――最後に跪かせればよい」
蝋燭の火が、大きく揺れる。
「感謝は、神へ向かう。その場を、我らが用意する」
年嵩の司祭が、ゆっくりと頷いた。
「……寄進も、戻る」
「戻すのだ」
司教は短く返す。
「治った者に、証言させろ。“神に感謝した”とな。そう言わせれば、民は疑わぬ」
司教の目が、わずかに細くなった。
「癒やしの場そのものに、聖性を与える」
別の聖職者が、低く呟く。
「……聖地化、ですか」
司教は否定しなかった。
「奇跡は、場所に宿ると人は信じる」
視線を落とす。
「ならば、その物語を作る。大学も、同じだ」
指で書状を押さえる。
「講義に入り、規律に関わる。学生に、教会の教えを染み込ませる」
ゆっくりと顔を上げた。
「医師であろうと、例外ではない」
誰も、口を挟まなかった。
「人と金の流れは、力だ。奪われたのではない。形を変えただけだ」
蝋燭の火が、わずかに揺れた。
「ならば――我らが、その形を定める」
こうして――教会の名を掲げた医学の学び舎が、上層では、形として認められた。
だが、その内側で動くものは、すでに別の理へと向かっていた。




