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暴動から少し日が過ぎた。私は医官から提出された複数の報告書を閉じ、静かに机の上へ置く。
……あり得ない。
病の記録は曖昧で、治療の結果も残されていない。同じ症状に対して、処置がまるで違う。ある例では、血を抜き、祈りを捧げ、薬草を煎じていた。
「これが、今の医療か」
思わず口に出ていた。
控えていた医官が、わずかに顔を伏せる。
「……はい。各地で伝わる方法を、それぞれ記しております」
……知が、繋がっていない。
私はゆっくりと息を吐いた。
「人は、同じ誤りを繰り返す。記録がなければ、積み重ならない」
医官は何も答えなかった。
私は視線を上げた。
「だから、集める」
短く言う。
「医者を、この地に。温泉が、病人を呼ぶ。そして、症例が集まる」
一歩、机に手をついた。
「ならば、観察できる」
医官の目がわずかに見開かれる。
私はさらに言った。
「治った者、治らなかった者。何をしたか、どうなったか、すべて記録させろ。そして残せ」
やがて医官が、慎重に口を開いた。
「……それは、学問として……まとめる、ということですか」
「そうだ」
私は頷いた。
「個人の技ではなく、積み上げるものにする」
医官は息を呑んだ。その反応は当然だ。今までの医療は、“人”に属していた。名医がいれば助かり、いなければ死ぬ。
だが、それでは広がらない。
「医師は、選り分けるな」
私は淡々と言った。
「腕の立つ者、名のある者、変わり者でもいい。ここで診させろ」
役人の一人が口を挟む。
「……殿下、それほどの者たちが、集まるでしょうか」
私は視線を向けた。
「来る」
短く言い切る。
私は、机の上の一通に目を落とした。そこに押された印章。大国の紋。私の、宮廷伯という名誉職。私はそれを、指で軽く叩いた。
「使う」
短く呟く。医師も、修道士も、商人も。どこに属するかを、常に見ている。安全か、守られるか。そして、価値があるか。
「大国の名は、それだけで通る」
静かに言う。
「呼べば、少なくとも、“話を聞く価値がある”と判断するだろう」
それで十分だ。
私はさらに続ける。
「手始めとして、温泉だ。患者を湯に入れ、飲ませ、経過を見ろ」
医官が戸惑いながら言う。
「……湯は、経験的には効くとされておりますが……」
「だから調べる」
即答だった。
「入れた者と、入れぬ者を分けろ。他の処置をした場合も、必ず書き残せ」
医官の目がわずかに見開かれる。
「何が効いたのか、分かるようにしろ」
私は最後に言った。
「ここを、“治す場所”にする」
ゆっくりと視線を巡らせる。
「祈る場所ではなく、治す場所だ」
誰も、すぐには答えなかった。
だが。医官が、深く頭を下げた。
「……しかと、承りました」
その声は、わずかに震えていた。
出来ることは、すべて始めた。
だが――教会からの返書は、なかなか届かなかった。
数日後。
新しい執務室にて、私は一通の書状を受け取った。封蝋には、教会の印が刻まれている。
マルクが、静かに言う。
「司教座よりのものです」
私は封を切り、中に目を通した。短い文面だった。
――協議を望む。本件、重大につき、直接の対話を求める。
私は、わずかに口元を歪めた。
「……呼び出しか」
誰に聞かせるでもなく呟く。マルクが、言葉を選びながら口を開いた。
「“招請”の形は取っておりますが……事実上は」
「分かっている」
私は書状を机に置いた。教会は、引かない。そして、譲る気もない。
「こちらの出方を見たいのだろう。あるいは、最初に線を引くつもりか」
役人たちは、黙っている。私は椅子に深く腰掛けた。
……当然だ。金の流れを握られた以上、向こうも動く。何もせずに座しているような相手ではない。私は短く言った。
「応じる」
マルクが顔を上げる。
「ただし、こちらから出向く形にはするな」
役人の顔が、少し険しくなった。
「向こうの場で話せば、主導権を取られる。中立の場を用意させろ」
「は」
「名目は“調整”でいい」
私は書状を指で叩いた。
「対立ではない、という形を崩すな」
役人たちが一斉に頷く。私は最後に言った。
「……思惑は、向こうにもある。ならば、こちらも使う」
石造りの館の一室。
教会の施設でも、領主の館でもない。双方の面子を保つために用意された、中立の場だった。
長い机を挟み、向かい合う。
一方には、司教と数名の聖職者。もう一方には、私とマルク、書記官、そして最低限の護衛。
扉が閉じられると、空気が静かに沈んだ。
やがて、司教が口を開いた。
「この地の新たな管理体制、あれは教会の役割を損なうものです」
私は、わずかに頷いた。否定はしない。
「巡礼者の流れも変わりました。祈りを経ずに、癒やしへ向かう者が増えています」
私は、静かに口を開いた。
「それは、承知してます」
視線を上げる。
「ですが、私は、教会の役割を奪うつもりはありません」
わずかなざわめき。司教は目を細めた。
「……ほう」
私は続ける。
「祈りは、必要です。人は、それなしでは生きられない」
この一言で、空気の硬さがわずかに緩む。
「ですが同時に、祈りの届かぬ者も確かに存在します」
誰かがわずかに息を呑んだ。私は構わず続ける。
「その時、人は何に頼るか。それは、経験と技です」
司教は黙って聞いている。私は一通の紙を取り出した。机の上に置く。
「これは、この地で集めた記録です」
誰も手を伸ばさない。
「同じ症状に対し、異なる処置がなされている。結果も、まちまちです」
私は紙を、手にした。
「……祈りを捧げ、救われた者もいます。だが、救われなかった者も確かに、存在してます」
私は紙を見た。
「ある子供は、祈りの後も熱が下がらず、そのまま息を引き取ってます」
一瞬、言葉が止まる。紙を押さえる指に、わずかに力が入った。
「別の男は、熱を理由に血を抜かれました。やがて、衰弱して死んでます」
……瀉血の量が、多かったのだろう。
「どちらも、正しいとされた処置です」
顔を上げる。
「しかし、結果は同じです」
紙から、手を離した。
「私は、それを否定するつもりはありません。むしろ、守りたい」
司教の眉が、わずかに動いた。
「守る……とは」
私は答えた。
「責任を、明確にすることです」
空気が変わる。
「名もなき治療師が、誤った処置を行い、その結果、人が死ぬ」
私は司教を見た。
「その時――民はどう思うでしょうか」
誰も答えない。
「“神は、救わなかった”と考えるでしょう」
その言葉は、静かに落ちた。司教の隣の聖職者が、顔を強張らせる。私は続けた。
「それは、本当に神の責でしょうか?……違うはずです。人の手順に誤りがあっただけです」
私はゆっくりと息を吐いた。
「だから、記録します。何をし、どうなったか、すべて残します」
視線を真っ直ぐ向ける。
「そうすれば、証明できるでしょう。奇跡が起きなかったのは、神の不在ではない。人の未熟によるものだと」
司教は、しばらく動かなかった。やがて、ゆっくりと口を開く。
「……理屈は、分かります」
その声は、先ほどよりも低かった。
「確かに、それは“教会を守る”理でもある。ですが」
視線が、鋭くなる。
「殿下は、教会の外に“もう一つの正しさ”を立てようとしている」
空気が張り詰めた。
「記録し、比べ、積み上げる――それは、やがて」
わずかに間を置く。
「祈りとは別の“判断基準”を生むでしょう。それを、教会が認めるとお思いか」
私は、静かに答えた。
「認めていただく必要はありません。ただ、否定しないでいただきたい」
司教の目が細くなる。
「……都合のよい願いですな」
「ええ。ですから、対価は用意します」
空気が、わずかに動いた。
「この地で生まれる成果。名声。人の流れ。それらは、教会と分け合いましょう」
司教は黙っている。私は続けた。
「そして――責任も、明確になる」
その一言だけ、わずかに重く落ちた。
やがて。
「……足りませんな」
静かな声だった。場の空気が、変わる。
「名も、利益も、結構。だが、それだけで教会が権威の一部を手放すと?」
司教は、ゆっくりと首を振る。
「認可を望まれるのであれば」
視線が、まっすぐに刺さる。
「それに見合う“証”をお示しいただきたい」
私は、沈黙した。
「殿下のやり方が、真に民を救うものだと。あるいは――教会がそれを認めてもよいと、納得できる何かを」
わずかに身を引いた。
「それなくしては、これはただの越権です」
私は、わずかに息を吐いた。
「……なるほど。では、示しましょう」
司教の目が、わずかに細くなる。
「結果で」
司教は、一度、目を閉じた。そして
「……検討しましょう」
短く、そう言った。
私は小さく頷いた。
「今日は、それで、いいでしょう」
わずかに息を吐く。
……おそらく、譲るつもりはない。
そのことだけは、互いに理解していた。




