73
その日の夕刻。 役所の一角で、数人の役人が帳簿を前に顔を寄せていた。
「……聞いたか」
一人が、声を落として言った。
「ああ」
別の男が、筆を置く。
「レオンハルト殿下の言葉だろう」
小さく息を吐く。
「許可証だの、記録だの……」
「手間が増えるな」
「今までは、来た客からその場で取って終わりだった」
「名前まで書けとはな……」
別の者が、帳簿をめくりながら言った。
「しかも日数ごとだ。間違えれば、こちらの責任になる」
沈黙。やがて、年嵩の役人が低く言った。
「……だが、抜けは減る」
誰もすぐには答えなかった。
「今までは、見逃しもあった。払わずに帰る者もな」
「……それを、逃がすな、と来たか」
小さく笑う者がいた。
「厄介な殿下だ」
だが、その声に強い否定はなかった。
誰かが呟く。
「……だが、理屈は通っている」
再び沈黙が落ちた。
一方、宿の裏手。
数人の主人が、桶を脇に置いて腰を下ろしていた。
「聞いたか」
太った男が顔をしかめる。
「許可証がないと泊めるな、だとよ」
「面倒なことになったな」
別の男が肩をすくめた。
「客にいちいち見せろと言うのか」
「見せなければ泊めるな、だ」
「そんなことをすれば、他へ流れるぞ」
誰かが吐き捨てるように言った。だが、端に座っていた年配の主人が、静かに口を開いた。
「……流れんさ」
視線が集まる。
「兵が立つ。門も見張る。どこへ行っても、同じになる」
一拍。
「なら、従うしかない」
誰も反論しなかった。
やがて、別の男が小さく言う。
「……だが、客は減る」
年配の主人は、首を振った。
村外れの小屋。
粗末な机を囲み、数人の男が顔を寄せていた。
「医官の許し、だとよ」
一人が舌打ちする。
「誰がそんなものを取る」
「取らなければ、追い出される」
別の男が低く言う。
「……締め付けか」
やがて、痩せた男が笑った。
「なら、場所を変えるだけだ」
「どこへ?」
「決まっている」
男は肩をすくめる。
「見えないところだ」
だが、その笑いは長く続かなかった。
「……いや」
別の者が呟く。
「今回は違う。兵が回る。門も押さえられる。逃げ場がない」
空気が重くなる。
「……嫌な領主が来たな」
誰も否定しなかった。
石造りの聖堂の奥。
厚い壁に囲まれた小部屋には、昼でも薄い影が落ちていた。窓は細く、差し込む光は弱い。机の上には蝋燭が灯り、羊皮紙と印章が並んでいる。
数人の聖職者が、無言で席についていた。
やがて、一人が口を開いた。
「……聞いたか」
低く、押し殺した声だった。
「これまで、直接入っていた金が……入らなくなる」
沈黙が落ちる。
別の男が、ゆっくりと指を組む。
「温泉の湯銭。宿からの上納。巡礼者の寄進……」
一つ一つ、確認するように言う。
「すべて、あの王子の手に移った」
「第三王子、か」
誰かが吐き捨てるように言った。
「忌々しい」
短い言葉だったが、室内の空気がわずかに揺れた。だが、すぐに別の聖職者が静かに口を開く。
「……力づくではない」
視線が集まる。
「王命の形を取っている。名目も整っている。……表向きは、“管理”だ」
苦い顔が並ぶ。
「管理、か」
先ほどの男が鼻で笑った。
「言葉を変えただけだ。やっていることは、奪取だ」
誰も否定しなかった。やがて、年嵩の司祭がゆっくりと口を開く。
「問題は、金ではない」
静かな声だった。
「……人の流れが、変わる」
低い声が落ちる。
「これまでは、この地に来た者は、まず教会に来た。祈りを捧げ、寄進をし、許しを得る」
静かに続ける。
「だが、これからは違う。門で止められ、名を書かされ、そのまま中へ通される」
わずかな間。
「――我らを通らずに、だ」
声が一段と低くなる。
「金の問題ではない」
ゆっくりと言う。
「人が、我らを通らなくなる。それが、問題なのだ」
誰もが、その意味を理解していた。
それは、金以上に重い。信仰の導線が、断たれるということだからだ。
沈黙が、重く落ちた。やがて、誰かが呟く。
「……放っておくのか」
年嵩の司祭は、すぐには答えなかった。しばらくしてから、静かに言う。
「いや」
ゆっくりと顔を上げる。
「交渉する。あるいは――」
言葉を切る。
「別の形で、関わる」
蝋燭の火が、小さく揺れた。
夜、再び宿の裏手。
昼間と同じ顔ぶれが、また集まっていた。
「結局、どうなる」
若い主人が苛立った声で言う。
「許可証だの、記録だの……やれるのか、あれは」
「やるしかあるまい」
年配の主人が静かに返す。
「兵が立つ。門も見張る。従わなければ、客を入れられん」
沈黙。やがて、端に座っていた痩せた男が口を開いた。 それまで一言も話していなかった男だった。
「……違うな」
視線が集まる。男は、ゆっくりと言った。
「あの方は、締めたいんじゃない」
一拍。
「儲ける気だ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「客を選び、流れを絞る。金を持つ者だけを残す」
静かに続ける。
「そして、逃がさず、取る」
火が小さくはぜた。
「荒らす連中を追い出して、場を整える。そうすれば、金は自然と集まる」
痩せた男の目は、底の見えない光を宿していた。やがて、誰かが低く呟いた。
「……そこまで、考えているのか」
痩せた男は肩をすくめた。
「さあな」
だが、その目は笑っていなかった。
数日後。
門の前には、朝から人が並んでいた。
「次!」
役人が声を張る。 机の上には、木札と羊皮紙。 そして、色の違う細い紐。それは許可証に合わせた色をしていた。
「名は。どこから来た。何日滞在する」
矢継ぎ早に問われ、旅人が戸惑う。
「……そんなもの、今までなかったぞ」
苛立った声が上がる。
「新しい決まりだ」
役人は顔を上げない。
「答えろ」
後ろの列がざわつく。
「早くしろ」
「いつまで待たせる」
別の場所では、宿の前で押し問答が起きていた。
「許可証がないと泊められん」
主人が腕を組む。
「昨日は泊めたじゃないか!」
旅人が声を荒げる。
「昨日までの話だ」
言い切る。
「今は違う」
男は舌打ちしたが、周囲を見て黙った。 門にも、通りにも、兵が立っている。
逃げ場はない。
やがて、渋々と門の列へ戻っていった。
……混乱は、各所で起きていた。
記録の抜け。 日数の数え違い。 色の渡し間違い。役人たちの額には汗が滲む。
「違う、それは三日の色だ!」
「昨日の分が抜けている!」
怒号が飛ぶ。
だが、列は止まらない。止めれば、溢れる。
回し続けるしかなかった。
その日の午後。
騒ぎは、湯殿の入口で起きた。
「止まれ」
低い声が落ちる。
男が、足を止めた。 腕に巻かれた紐は――ない。
「許可証は」
兵が問う。
「……持っている」
男は即座に答えた。
「けど、宿に置いてきた」
「なら、取りに戻れ」
短い返答。男は舌打ちした。
「一度くらい、いいだろう」
一歩、前へ出る。その瞬間だった。兵が、槍の柄で道を塞ぐ。
「通すな」
空気が変わる。周囲の視線が集まる。
男は顔を歪めた。
「大げさだな……」
だが、その足は止まっている。兵は動かない。やがて、別の兵が口を開いた。
「記録を見ろ」
役人が駆け寄り、帳簿をめくる。
「……該当なし」
短い報告。
「では――」
兵は一歩踏み出した。
「規則に従えぬ者は、出て行け」
静かな声だった。男の顔が強張る。
「……ふざけるな」
だが、その声に力はない。
周囲の視線が、すべて自分に向いている。
逃げ場は、ない。兵が腕を取る。抵抗は、できなかった。
そのまま、門の外へと連れ出される。
誰も、止めなかった。誰も、口を出さなかった。ただ、見ていた。
やがて、誰かが小さく呟く。
「……本当にやるのか」
湯殿の前に、静けさが戻る。
だがそれは、先ほどまでとは、違う静けさだった。
新しい執務室にて。
様々な報告が、次々と私のもとに届いた。
混乱も、反発も、当然だ。
だが、根本は曲げられない。……決して。




