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私は静かに口を開いた。
「それは……決定事項でしょうか」
第一王子は杯を指先で回した。
「いや」
一口、葡萄酒を飲む。
「近いうちに、私の王太子承認の儀がある」
そう言って、兄は少し遠くを見るような目をした。
「そこで任命できれば、と思っただけだ」
部屋は静かに、灯りが揺れている。
私はしばらく考え、やがて言った。
「実は――温泉地で考えたことがあります」
第一王子が視線を戻した。
「ほう?」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「今回の件は、ただの事故でした。煙突が詰まり、人が倒れただけです」
杯を置く。
「ですが、あの宿を見たとき、私は思いました」
私は兄を見た。
「もし、疫病だったらどうなっていたか、と」
第一王子の表情が少し変わる。私は続けた。
「人は密集し、湯気と煙で窓を閉め切り、汚れた水を使い回す」
静かに言う。
「もし病が入り込めば、あの温泉地は一月で終わります」
部屋の影が、濃くなった気がした。
「そして同じことは――この国の町すべてで起こり得ます」
私は、かつて得た知識を思い出す。
「だから私は考えました。あの地を領地としていただきたいのです」
第一王子が眉を上げた。
「温泉地を?」
私は頷いた。
「そこに一つの都市を作ります」
机の上の皿を指で軽く動かしながら、私は説明した。
「医療は、教会が長く守ってきたものです」
そして続ける。
「ですから修道士を招き、施療は彼らに任せます」
第一王子は静かに聞いている。
「薬草も必要です。薬草師、医師を集め、やがてそこを、医術を学ぶ学び舎にします」
「……大学か」
兄が小さく言った。私は頷いた。
「温泉地ですから、病人も集まり、貴族も療養に訪れます」
机の上のチーズを指した。
「そして、商人も来ます」
第一王子の口元がわずかに緩む。
「学者、貴族、商人。三つが交われば、都市として自然に育ちます」
そして最後に。
「もう一つ役目があります」
第一王子が杯を置いた。
「何だ」
私は答えた。
「外国から来る旅人、巡礼者、商人。まずその都市に滞在させます」
私は静かに続ける。
「そこで体調を見てから、王都へ入れます」
第一王子が目を細めた。
「もし病を持つ者がいれば、そこで止まります」
私は言った。
「そうすれば、おそらく、疫病を運ぶ悪い気が、王都まで届きません」
第一王子は口を開いた。
「一つの都市では国を守れないが、やり方を示すことはできる、という訳か」
やがて杯をゆっくり持ち上げる。
「……なるほど」
兄は小さく笑った。
「温泉地で、そこまで考えていたのか」
私は肩をすくめた。
「風呂に入りながら、ですが」
第一王子はしばらく葡萄酒を見ていた。
そして静かに言う。
「宰相より面白い仕事を考えているな」
そして、小さく頷いた。
「考えは、よく分かった」
そう言って杯を手に取り、赤い葡萄酒をゆっくり揺らした。
「王と相談してみよう」
灯りを受けて、酒が深い色に光る。
兄はそのまま杯を見つめながら、少し苦笑した。
「……本当はな」
顔を上げる。
「お前には、私の傍で働いてもらいたいのだが」
私は眉を上げた。
「それは……今よりも仕事が増えるのですか?」
第一王子は即答した。
「当然だな」
そして肩をすくめる。
「定時などと言っていられる仕事ではないぞ」
……絶対に御免だ。
私は心の底からそう思った。王都で政務に縛られる毎日。つまり、書類の山。終わらない会議。
それよりは――温泉地の方がいい。
毎日、天然の湯に入れる。谷の空気は清々しい。あの土地なら、葡萄も育つかもしれない。うまく栽培すれば、酒造りだってできるだろう。
料理も面白い。温泉の蒸気を使えば、蒸し料理が作れる。肉でも魚でも、野菜でも。
……どう考えても、そちらの方が楽しそうだ。
だが、そんなことを顔に出すわけにはいかない。私は杯を静かに置いた。
そして神妙な顔で言う。
「どのような地であろうと――」
第一王子を見る。
「国のため、兄上のお手伝いをする所存です」
第一王子はしばらく私の顔を見ていた。
やがて、ふっと小さく笑う。
「……そうか」
杯を軽く揺らす。
「国のため、か」
少しだけ肩をすくめた。
「お前らしい言葉だ」
そう言ってから、第一王子は静かに続けた。
「だがな、レオンハルト」
私を見る目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「お前は昔から、誰よりも真面目で、努力もしていた」
第一王子は杯を止めた。
「……だが、不思議なほど目立たなかったな」
杯を見つめながら、続ける。
「それが今ではどうだ。大国で宮廷伯をもらい、商人に持ち上げられ、温泉では人を救った」
兄は小さく息をついた。
「噂の絶えない弟だ」
それから、少しだけ笑う。
「温泉地で都市を作る、か。お前がそんな話をするとは思わなかった」
一口酒を飲んでから言った。
「……まあいい。国の役に立つなら、それで構わん」
そして声を少し低くする。
「だが覚えておけ。王族に本当に楽な場所などない」
兄は杯を机に置いた。
「どこへ行っても、仕事は追ってくる」
兄は私を見た。
「お前は変わった」
少し間を置いてから言った。
「……いや。元々そういう男だったのかもしれんな」
そして軽く笑う。
「ただ、私が気づかなかっただけで」
私は杯を持ち上げた。
「……今は、酒を楽しみましょう」
第一王子がこちらを見る。私は軽く笑った。
「政治の話は、明日でもできます」
兄は一瞬だけ黙り、やがて小さく息をついた。
「……そうだな」
杯を軽く掲げる。
「今夜くらいは、ただの兄弟でいよう」
私は頷いた。
同じ時間を過ごすのなら、気持ちの良い方がいい。重い話を抱えたまま酒を飲んでも、旨くはならない。
私たちは杯を軽く合わせた。
澄んだ音が静かな部屋に響く。その拍子に、葡萄酒の香りがふわりと立ち上った。
兄は葡萄酒を一口飲み、ふと呟いた。
「……レオンハルト」
私が顔を上げると、兄は静かに言った。
「忘れるな」
杯を軽く揺らす。
「お前は、私の弟だ」
そして、グラスの葡萄酒をゆっくり飲み干した。
……温泉地を領地として望むもう一つの理由は、マルクのことだ。あの矢の傷はほとんど癒えたとはいえ、時折痛むに違いない。温泉地なら、湯の力で少しでも楽にしてやれる。
……配下を守るのも、上に立つ者の務めだ。
この思いは、あえて口にすることではないが。




