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医者の家を離れてしばらく歩いたところで、私はマルクに声をかけた。
「マルク」
「はい」
「先ほどの医者だが……少し調べておいてくれ」
マルクはわずかに笑った。
「調べるまでもありません。既に耳にしております」
私は眉を上げた。
「ほう?」
マルクは歩きながら続けた。
「医者は元々、ある男爵家の次男だそうです」
「次男か」
「若い頃は戦に出ていたようですが……どうやら自分には剣よりも、負傷者の手当ての方が向いていると悟ったらしいです」
私は思わず苦笑した。
「変わった男だな」
「戦場では修道士や外科師の手伝いをしているうちに、医療を覚えたとか。もっとも、大学で学んだ学問医ではありません」
「古典語は?」
「少し読める程度のようです」
私は頷いた。それならば、薬草の書くらいは読めるのだろう。
マルクはさらに言った。
「ですが、経験と勘で人を診る腕が妙に当たるらしく……」
「ほう」
「この温泉地では、ちょっとした名医扱いになっているとか」
私は小さく息をついた。
「なるほどな」
私はマルクに聞いた。
「温泉地では、医者の免許は不要なのか」
マルクは肩をすくめた。
「免許を持っている者は、ごく僅かです」
「そうなのか?」
「ええ。大学で医学を学んだ学問医は、ほとんどが大きな都市か宮廷におります。地方に来ることは稀です」
私は少し考えた。
「では、地方の病人は誰が診る?」
マルクは指を折りながら答えた。
「修道院の僧、薬草師、外科師など。あるいは経験だけで人を診る者です」
「経験だけで?」
「戦場で覚えた者もおります。修道院で薬草を扱っていた者もおります。散髪屋が外科をすることさえあります」
私は小さく唸った。
「散髪屋が医者とは」
マルクは肩をすくめた。
「髭を剃る手が器用だからでしょう。膿を切ったり、骨を繋いだりするのも彼らの仕事です」
私は小さく頷いた。
「つまり、先ほどの医者もその類いか」
「そういうことでしょう」
マルクは続けた。
「もっとも、地方では腕の良い者が一人いれば、それで十分です。学問があるかどうかより、実際に治るかどうかが大事ですから」
私は温泉の湯気の向こうを見ながら言った。
「理屈より結果、というわけか」
そう言って歩みを進めた、その時だった。
向こうから一人の男が走ってきた。
旅装のままの若い男で、息を切らしながら坂道を駆け上がってくる。靴は泥だらけで、肩には粗末な外套を引っかけている。顔色は青ざめ、何度も後ろを振り返りながら走っていた。
私たちの横を通り過ぎると、そのまま先ほどの医者の家の方へ駆けていく。
……随分、慌てているな。
私は足を止めて、振り返った。
男は医者の家の扉を叩き、ほとんど叫ぶように声を上げている。言葉までは聞き取れないが、ただ事ではない様子だった。
しばらくすると扉が開き、先ほどの医者が外に出てきた。
男は必死に何かを説明している。
医者の表情が、わずかに険しくなった。
やがて医者は家の中に戻り、すぐに革の袋を手にして出てきた。どうやら薬や道具を入れているらしい。
男に急かされるようにして、二人は通りを下っていく。
……何かあったのか?
私はその背を見ながら言った。
「マルク」
「はい」
「様子が妙だな」
マルクも同じ方向を見ていた。
「ええ。急患でしょう」
男と医者は温泉街の中心の方へ急いでいる。
そこには、旅人がよく泊まる宿が並んでいる。
私は少し考えてから言った。
「行ってみるか」
そう言った途端、マルクの表情が変わった。
「お待ちください」
私は足を止めた。
「何だ」
「殿下が直接向かわれる必要はありません。私が様子を見て参ります」
マルクの声は落ち着いていたが、はっきりとしていた。
「ただの病人なら、それで済みます。ですが……」
彼は少し言葉を選んだ。
「もし疫病であれば、殿下が近づくべきではありません」
私は腕を組んだ。確かにもっともだ。
だが、先ほどの男の慌てようが頭から離れない。
「遠くから様子を見るだけだ」
私が言うと、マルクは小さく息をついた。
「……承知しました」
そしてすぐに後ろの護衛に目配せする。
「二人、先に行け。宿の様子を見て、戻れ」
護衛たちは静かに頷き、足早に通りを下っていった。マルクは私の隣に戻る。
「殿下は報告が来るまで、お待ちください」
私は苦笑した。
「私を縛るつもりか?」
「いいえ。ただ守るだけです」
私は苦笑した。
以前、私を庇って矢傷を負ってからというもの、マルクは以前にも増して慎重になった。
……だが、その用心深さは嫌いではない。
むしろ頼りになる。
私はもう一度、男たちが消えた方を見た。




