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私は護衛を伴い、朝の散歩に出ていた。
この温泉地では、湯に浸かるだけでなく、山の空気を吸いながら歩くのも嗜みとされているらしい。
谷には朝霧が薄く残り、石畳の道はまだ静かだった。ところどころに湯気が立ち上り、硫黄の匂いが微かに漂っている。
向こうから、数人の従者を連れた貴族が歩いてきた。
男は私に気づくと足を止め、すぐに深く頭を下げた。
「レオンハルト殿下。このような所でお会いできるとは、光栄でございます」
私は軽く頷いた。顔には見覚えがある。
クロウフォード伯爵――その本人だった。
私は聞いた。
「何故ここに?」
伯爵は姿勢を正したまま答えた。
「妻が、この地で療養をしているのです」
その声には、わずかに疲れが滲んでいた。
「これから医者のところへ行き、薬を受け取るところでして」
私は少し考え、言った。
「私も一緒して、いいだろうか?」
伯爵は一瞬だけ驚いたように目を上げたが、すぐに頭を下げた。
「もちろんでございます」
私は、クロウフォード伯爵について行った。
温泉地の外れに、その医者の家はあった。
石と木を継ぎ足して建てられた小さな家で、豪奢さはないが手入れは行き届いている。軒の下には束ねた薬草が吊るされ、窓辺には乾かした根や葉が並べられていた。温泉の湯気に混じって、独特の薬草の匂いが漂っている。
どう見ても立派な医館というよりは、薬草屋か修道院の作業小屋のような家だった。
伯爵が扉を叩いた。
ほどなくして扉が開き、中から男が現れた。
年は四十を過ぎた頃だろう。肩幅が広く、姿勢は軍人のようにまっすぐだが、身につけているのは質素なローブだ。髭には白いものが混じり、顔には戦場で風に晒されたような荒さがある。
しかし目は鋭く、どこか落ち着いていた。
男は伯爵の姿を見ると軽く頭を下げた。
「これは伯爵様」
クロウフォード伯爵は簡潔に言った。
「家内の薬を貰いに来ました」
医者は伯爵を見ると、慣れた調子で口を開いた。
「最近の調子はどうですか」
クロウフォード伯爵は小さく息をついた。
「相変わらずです。足の痛みが強く、長く立っていられないようで……。少し歩くだけでも骨が軋むように痛むと言ってます。背も以前より曲がり、体もずいぶん弱っているように思います」
伯爵の声には、抑えきれない疲れが滲んでいた。
「夜になると、腰や脚の痛みが増すらしくて。体に力が入らず、侍女に支えられてやっと歩く始末です」
医者は静かに頷いた。
「では、あまりお変わりない、と」
伯爵は首を振った。
「二年前よりは、それでも良くは、なってます。ここへ来た頃は、起き上がるのも辛そうでしたから」
私は黙ってそのやり取りを聞いていた。
……うん?
今の話を聞く限りその症状は、骨軟化症ではないのか?ふとそんな考えが頭をよぎった。
だが私は、その場では口に出さなかった。
医者は棚から小さな包みを取り出し、伯爵に差し出した。
「では、この薬を。煎じて飲ませてください。それと――なるべく栄養のある物を食べさせることです」
そう言って、指を折りながら続けた。
「卵、山羊の乳、肉の煮込み。骨を長く煮たスープも良い。蜂蜜も少し混ぜてやると、体の弱った者にはよろしい」
クロウフォード伯爵は包みを受け取った。
「ありがとうございます」
医者は軽く頷いただけだった。
話を聞いていた私は、心の中で小さく首を傾げた。
今挙げた食べ物の中には、確かに効きそうなものもある。しかし、関係の無さそうな物も混じっていた。
やはり、勘と経験の医者なのだろう。
やがて私たちは礼を述べ、医者の家を後にした。
私は少し歩いてから、伯爵に声をかけた。
「聞いても良いか」
伯爵がこちらを見る。
「夫人は、いつもどのように過ごしているのだ?」
伯爵は一瞬だけ言葉に詰まった。
だが、やがて静かに答えた。
「……一日中、家の中です」
私は黙って続きを待った。
「温泉を汲み上げておりまして。家の中の湯殿で入浴しております。外へ出ることは、ほとんどありません」
伯爵は少し困ったように眉を寄せた。
「それに、少し前には庭でつまずいただけで、脚の骨を痛めました。折れてはいない、と言われましたが。それ以来さらに歩けなくなりまして」
伯爵は少し遠くを見た。
「調子の良いときに、散歩を勧めたこともあったのですが……」
そして苦笑した。
「日に焼けるから嫌だと」
……日焼けを避けたい気持ちは分かる。貴族の婦人ならなおさらだ。
私は少し考えてから、静かに口を開いた。
「無理に歩かせる必要は、ないのだが」
伯爵がこちらを見る。
「椅子でも寝台でもよい。家の庭か、日の当たる場所に出るのを、勧める」
伯爵は少し意外そうな顔をした。
私は続けた。
「体を温めるだけでなく、日を浴びることも体には良いと聞いたことがある。湯に入るのと同じように、日を浴びる時間を作るのも悪くないのではないか」
伯爵はしばらく黙っていた。
やがてゆっくりと頷いた。
「……そう仰るのでしたら」
そして小さく息を吐いた。
「もう少ししたら、私は領地に戻る予定です。空けてばかりもいられないので」
伯爵は苦笑した。
その笑みの奥には、隠しきれない疲れがあった。
妻の長い病。そして領地の経営。
その両方を背負う男の表情だった。
私はそれ以上何も言わなかった。
……もし骨軟化症なら。これだけでも、かなり改善するはずだ。
だが、私は医者ではない。専門の知識があるわけでもない。
これ以上、口を出すべきではないだろう。
私はそう思った。




