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私は、もう一度管理人を見た。
どう見ても、建物に風呂は一つ。
「……この国では」
「はい」
「男女で湯を分けないのか?」
管理人は少しだけ考えた。
「場合によります」
あまり要領を得ない答えだった。私は館の廊下へ出た。
石の床の向こうから、数人の人影が歩いてくるのが見える。女性だった。
侍女らしき者が数人、その後ろに年若い令嬢と、もう一人年上の婦人。衣装からして貴族だろう。だが。騎士も一緒にいた。私は一瞬、足を止めた。
彼女たちは浴場へ向かっていた。
私は横にいた管理人に、小さく言った。
「……男女一緒にいたが?」
管理人は平然としている。
「はい」
「共に入るのか?」
「その通りでございます」
私は思わず聞き返した。
「そう、なのか?」
管理人は、少し不思議そうな顔をした。
「ええ。殿下」
そして当然のように付け加えた。
「服を着ておりますので」
私は眉をひそめた。
「服?」
「はい」
「……湯に入るのに?」
「ええ」
管理人は説明するように言った。
「湯着でございます。薄い布を体に巻く形です。貴族の方々は皆それを着けて入浴されます」
なるほど。
……混浴。か。
自分も、入る時があるのか……?
……いや。
望みはしないが――無いとは言えないか。
私は少しだけ息を吐いた。
「肌を隠す布、ということか」
「そのようなものです」
私はもう一度、先ほどの婦人たちの背中を見た。
確かに、侍女が布の束を運んでいた。
私は結局、一人で湯に入った。
湯殿の中央には、石を積んで作られた大きな湯溜まりがあった。池と言った方が近い。
その縁から、細く湯が流れ込んでいる。
山から引いた温泉だろう。だが、その量は決して多くない。
この広さを満たす湯が、すぐに入れ替わるとは思えなかった。
湯殿の隅では、浴場係の男が長い柄杓で湯をすくい、石の床へ静かに流していた。溜まった汚れを排水の溝へ押し流しているのだ。
湯着の布を巻き、石の縁に腰を下ろして、ゆっくりと湯に身を沈める。
体は確かに温まる。湯は強く、鉱泉の匂いが肌に残った。
だが――。
……汚い。日本なら苦情が来る。絶対だ。
しかし、ここで顔をしかめるのは王族のすることではない。
……長く浸かる気にはなれなかった。
私は早々に湯船を上がった。
「桶を」
侍従にそう言うと、湯とは別に汲ませた清い湯を持ってこさせる。
それを肩からゆっくりと流した。
冷たい湯が肌を伝い、鉱泉の匂いを少し洗い流していく。
私はようやく息を吐いた。
……耐えられなかったのだ。
背後で見ていた管理人が、怪訝そうにこちらを見ていた。
私は湯殿の外へ出た。
まだ肌に鉱泉の匂いが残っている。
侍従が布を差し出し、私は静かに肩を拭いた。少し離れたところで、側近のマルクが控えている。
私は彼の方へ歩いた。
「マルク」
「はい、殿下」
私は小さく息を吐いた。
「温泉とは、こういうものなのか?」
マルクは少し考えてから答えた。
「ええ。この地では、だいたいそのようなものです」
「……そうか」
私は少し間を置いた。
「正直に言うが、あまり清潔には見えない」
マルクはわずかに苦笑した。
「ここは、まだ綺麗な方でございます」
私は眉をひそめた。
「綺麗、とは?」
マルクは声を低くした。
「いえ……乱れていない、という意味です」
「乱れる?」
「平民の浴場では、もっと騒がしくなります」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「酒を持ち込み、賭け事をし、夜になれば歌や踊りも始まります。中には、入浴よりも別の目的で集まる者もおります」
私はしばらく黙った。
「……なるほど」
マルクは肩をすくめた。
「都市の浴場などでは、もっとひどいところもあると聞きます。ここは療養の湯で、貴族の方々が多い。まだ節度が保たれております」
私はもう一度、湯殿の方を振り返った。
白い湯気が屋根の隙間から細く立ち上っている。
「これで、か」
思わず小さくつぶやいた。
マルクは何も言わなかった。
私は思った。
文化の違いというものは、その世界に入ったなら受け入れるべきだ。そう信じて疑わなかった。
だが――。この温泉だけは。
普通の、日本の温泉でいい。
……これは、私の我儘なのだろうか。
湯殿の湯気を見ながら、私は答えを出せずにいた。




