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数日後、出立の朝が訪れた。
城壁の上には王国の旗が掲げられ、城門前には騎士団が整列している。
甲冑は磨き上げられ、槍の穂先は朝日に光っていた。
随行人数は、マルクを含めて十二名。来た時と同じ顔ぶれだ。彼らは城門前の儀礼区画にて、馬装を整えたまま静かに待機していた。
私は、馬の手綱を握った。
儀式用の布が敷かれ、その中央に王家の紋章が置かれている。
やがて――静かな足音が石畳に響いた。
第一王女エリシアが、従者を従えて現れる。
その姿勢は王女として揺るぎなく、周囲の視線を自然と集めた。
騎士たちが一斉に槍を掲げる。王女は城門の前で立ち止まり、私へ視線を向けた。
「御武運と御帰国の平安を祈ります」
公的な言葉。
だがその声は、少しだけ柔らかく感じた。
私は右手を胸に当て、騎士の礼を返す。
「殿下の御厚意、忘れませぬ」
一瞬、沈黙。旗が風に鳴る。
王の使者が前へ進み出て、正式な出立許可を宣する。
「第三王子レオンハルト殿下、帰国を許可する」
その言葉と同時に、城門がゆっくりと開いた。
馬に跨る。私は一度だけ振り返る。
王、王妃、王太子、そして王女エリシア。
彼女は動かない。
だがその瞳は、最後までこちらを見送っていた。
私は馬の腹を軽く蹴る。
蹄の音が石畳に響き、やがて城門の外へと出た。
帰国の途上、再び狩猟城を経由することになった。
往路と同じ城。そして、あの黒革の手袋の男――王命監察官が、そこに立っていた。
「……お待ちしておりました」
柔らかい声。
しかし目は、鋭い。
夕食は、今回は上品な味付けだった。
王命監察官は猪肉を切り分けながら言う。
「殿下」
私は視線を上げる。
「学院構想、拝見しました」
沈黙。
「机上の計算と、今回の判断。差はございましたか」
私は答える。
「ある。だから現場で修正する」
監察官は小さく頷いた。
「即答できるならば、まずは及第でしょう」
彼は杯を置く。
「……好んで殿下を試しているのではありません」
黒革の手袋が静かに動く。
「私は王の“眼”にございます。見たものを、そのまま主君へ奏上する。それが務め」
私は問う。
「意見は述べないのか」
「不要です。伝えるのは事実のみ」
私は杯を置いた。
「ならば聞こう」
監察官の視線が止まる。
「見たものを、そのまま信じるのか」
監察官は答える。
「信じるのではなく、記すのです。判断は王がなさる」
私は言う。
「ならば、その重さから逃げるな」
一瞬、広間が静まる。
「王の判断を左右する報告だ。何を見るか、何を伝えるか――それを選んだ者の責もある」
監察官は黙ったまま私を見る。やがて低く言う。
「……殿下は、私を試しておられるのですか」
私は首を振る。
「違う」
視線を外さず続ける。
「見ているだけだ」
短い沈黙。監察官はわずかに頷いた。
「なるほど」
低い声。
「今宵は、私の方が測られましたか」
私は息を吐く。
「互いに、だ」
監察官は杯を置き、わずかに目を細めた。
「……いいでしょう」
一拍。
「王が見たがる人物というわけですな」
監察官はわずかに頷いた。
それは敵意ではなく――承認に近い動きだった。
翌朝。
私は馬に跨る。門の前で、王命監察官が一歩進み出た。
「殿下」
彼は一瞬だけ沈黙し、そして――黒革の手袋を外した。これまで一度も外されなかったそれを。
「道中の御無事を」
差し出された手は、驚くほど静かだった。
私はその手を握る。
「監察官」
彼はわずかに笑った。
「本日は、王の眼ではなく。一人の臣としてお見送りいたします」
私は狩猟城を後にした。当初の予定より、大幅に遅れた。
しかし、学院設立の協議は無事に終わり、突発事案であった戦も収束した。
マルクを見た。幸いにも、肩の傷は順調に回復へ向かっている。
自国へ戻る――それだけで、これほど気が緩むものか。
……どう考えても、働き過ぎた。
しばし政務から離れ、静養の許しを願い出てもよいだろうか。
私だけではない。
今回の従者、護衛騎士、医官、そして長く緊張を強いられた者たちにも、休息は必要だ。
休養を賜る制度を設けることも、今後のためになるかもしれない。
馬の揺れに身を任せながら、私はそんなことを考えていた。
隣国での日々は、終わりの刻を告げようとしていた。




