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兵たちの噂
夜営地の焚き火が、ぱちりと弾けた。
甲冑を外した兵たちが、粗末な杯を回している。
「……聞いたか」
一人が声を落とす。
「何をだ」
「マルク殿のことだよ。あの重傷だったやつ」
「ああ、あれか。助かったって話だろう?」
焚き火の向こうで、別の兵が身を乗り出す。
「助かっただけじゃねぇ。殿下が口を出したらしい」
「殿下?」
「レオンハルト殿下だろう?」
名が出た途端、何人かが黙る。
「医官に言ったそうだ。“焼くな”ってな」
「焼かなかった?」
「強い酒を使わせたとか」
一瞬の沈黙。やがて、鼻で笑う者がいる。
「信じるのか? そんな話」
「だが助かったのは事実だ」
「偶然だろう。運が良かっただけだ」
「いや、縫い方も指図したって聞いたぞ」
「王子様が縫い方を知ってるってか?」
小さな笑いが起きる。だが、完全な嘲りではない。
「……あの方、戦場も一目で読んだって話だ」
「そうだな。あの停戦だって、あっという間にまとめちまった」
焚き火がまた弾ける。誰かが呟く。
「焼かなかったから助かった、って医官が言ったらしい」
「医官が?」
「さあな。そう聞いただけだ」
風が吹き、火が揺れる。
「信じるか?」
「分からん」
「偶然かもしれん」
「だが――」
誰も続きを言わない。彼は生きている。
それは事実だ。そして、あの夜、殿下が天幕に入ったのも事実。
杯の酒をあおり、兵は肩をすくめる。
「まあいい。助かったんなら、それでいい」
「そうだな」
結局、誰も結論には至らなかった。
だが噂は、火の粉のように夜営地を渡っていく。
消えることなく、静かに広がっていった。
医務官たちの議論
医務室の奥の小部屋は、珍しく騒然としていた。
乾きかけた薬草。そして、まだ湯気の残る銅鍋。
「……マルク殿の処置、あれはどう見る?」
年嵩の医官が腕を組んだ。若い医官が首を振る。
「わかりません」
「焼かなかったのだぞ」
「はい。焼灼を行わず、強い酒で洗浄をしたとか」
「洗浄、だと?」
別の者が口を挟む。
「酒は腐敗を遅らせる。だが焼くほど確実ではない」
「確実、か?」
沈黙。
「腫れは軽く、膿も見えないとか」
「熱も下がった」
「ならば正しかったのではないか」
「偶然だ」
即座に否定の声。
「運が良かっただけだ」
「傷が浅かった可能性もある」
「浅くはなかったらしいぞ」
「普通は切り広げる」
「切れば出血が増えるからか?」
「しかし、焼けば出血は止まる」
「焼けば肉は傷む」
言葉が重なり、熱を帯びる。
やがて一人が銅鍋を指差した。
「器具を、熱湯で煮たという話は本当か」
「見た者がいる」
「どうしてだ?」
「清めのため、と」
「ならば水ではいけないのか?」
問いが宙に浮く。誰も即答できない。
「熱湯ならば、毒気が落ちる……のか?」
「毒気とは何だ」
「腐敗を呼ぶものだ」
「それが何であるかは分からぬだろう」
議論は巡る。
「酒で洗い、焼かず、肉を生かす」
「理にかなっている……ようにも思える」
「だが我らは長年、焼いてきた」
「それで救えなかった命もある」
空気が重くなる。誰もが知っている。
焼いても助からぬことはある。切っても死ぬことはある。
「では、殿下は何を知っているのだ」
誰かが小さく呟いた。部屋が静まる。
「書物か?」
「異国の医術か?」
「修道院の学僧か?」
「……神の加護か」
それには、誰も頷かなかった。沈黙の後、最年長の医官がゆっくりと言う。
「偶然かもしれぬ、だが、理屈はありそうだ」
鍋の湯が静かに冷めていく。
ただ一つ、確かなのは――彼が、生きているということだけだった。
宮廷のさざめき
停戦が成立して数日。城の奥、重臣たちの控えの間では、別の議論が始まっていた。
「レオンハルト殿下は、医療に精通しているのか?」
低い声が問う。
「いや、聞いたことがない」
「では何故、あの夜あれほど迷いなく指示を?」
「戦場の混乱であれば、思いつきということもある」
「思いつきで命は救えぬ」
静かな反論。杯が卓に置かれる。
「医官たちが議論していると聞く。焼かず、酒を使い、器具を煮沸したとか」
「煮沸?」
「清めのためらしい」
「修道院の学僧でもあるまいに」
短い笑い。だが笑いはすぐに消える。
「しかし、戦も勝利に導いた」
「停戦をまとめたのは事実だ」
「戦略だけでなく医術にも通じる……か」
その言葉に、空気がわずかに張る。
「異国の知識を持つ王子、ということになるな」
「小国だぞ」
即座に返る声。
「国力は我らに及ばぬ」
「だが油断はできぬ」
「危険だ」
誰かが低く言う。
「危険なほど、頭が切れる」
沈黙。
評価は確実に上がっている。だがそれは歓迎と同義ではない。
「国に取り入れるべきではないのか」
一人が言う。
「学問、軍略、いずれも有益だ」
「取り入れる?」
別の者が眉をひそめる。
「深入りすれば影響を受ける」
「王家の均衡を乱すやもしれぬ」
「それは考えすぎだ」
「いや、異邦の王子が宮廷で名を上げるのは、好ましくない」
杯が傾く。
「卑怯なだけだ」
ぽつりと漏れる声。
「捕虜を使い、停戦をまとめ、名を得た」
「それを卑怯と呼ぶか?」
「剣で決せぬ者のやり口だ」
「血を流さずに済んだのだぞ」
「それでもだ」
議論は止まらない。
賞賛と警戒。尊敬と反発。どちらも本音だった。
「いずれにせよ」
最年長の重臣がゆっくりと言う。
「扱いづらい御方であることは確かだ」
その言葉に、誰も否定しなかった。
宮廷でも、話は絶えることがなかった。
レオンハルトという名は、称賛とともに、慎重さを伴って語られていた。
噂は語る者ごとに形を変え、やがて大国の王の耳にも届くことになる。
そして、その日の夕刻。第三王子は密かに王に呼ばれた。




