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私は、地図を見た。丘の向こうに城塞都市がある。そのさらに背後に王都。森を抜ければ交易地。かつては大国の手にあった。今は敵国の旗が立つ。
私は聞いた。
「なぜ、今なのだ?」
副騎士団長は地図の上に指を滑らせた。
「敵国は物流税を引き上げました」
交易地で、指を止めた。
「交易商は悲鳴を上げ、都市の広場では王家を罵る声が上がり、貴族は王に不満を募らせております」
「この丘を取れば、どうなる」
副騎士団長は地図の丘を指で叩いた。
「城塞都市の動きが鈍ります」
「それだけか」
「いいえ。城塞都市が詰まれば、背後の王都も動けませぬ。兵も物資も、この道を通ります」
「では、情勢不安が」
「好機で、ございます」
副騎士団長が言う。
「ただし、敵国の伯爵は侮れませぬ。老獪にございます」
「息子は」
「嫡子は一人。武勇に優れ、逸る質とか」
「森を好むと、聞いたが」
「はい。此度も、伏兵を率いるやもしれません」
私は地図から目を上げない。
「父は策。子は刃、か」
私は黙した。
敵は自らの税で己を締め上げている。我らが押せば崩れる、と。
それは戦か。それとも、他国の軋みに刃を差し込むだけか。
丘を取れば有利だ。だが、丘を取ることが目的ではない。交易地を奪い返すことか。
私は地図を見下ろす。
崩れかけた均衡。ならば終わらせる機とせねばならない。
「準備をせよ」
私はそう命じた。
だが、開戦の号砲は我らが鳴らしたのではない。森の前縁で、小競り合いがあった。敵の哨戒が、こちらの薪取り部隊を越境と非難したという。 こちらは逆に、敵の斥候が境を踏み越えたと主張した。
矢が一本、放たれた。
どちらが先かは、もはや誰にも分からぬ。だが、その一本で十分だった。
敵は「侵攻」と叫び、こちらは「応戦」と掲げた。膠着は解けた。
丘の睨み合いは、戦へと変わった。
この任務にあたり、王命は「撹乱せよ」たったそれだけだった。
森に囲まれた敵の補給線。伏兵は確実に潜んでいる。この兵数で奥へ踏み込めば、物資を焼いて終わりだ。
――それでよいのか。
まず、浅瀬を探すよう、命令する。川幅の狭まる地点。流れの緩む場所。
敵が最も警戒するであろう渡河点。
副騎士団長は言った。
「お待ちを。それは危険にございます」
当然だ。敵が伏せるならそこだ。
しかし、私は答えない。対岸の森ではなく、さらにその先――交易地へと続くであろう地形を見ていた。
下見の途中、私はあえて迂回させた。湿地を避け、岩盤の露出した高みへと向かう。マルクが馬を寄せた。
「殿下、なぜこのような遠回りを。補給線を叩くならば、最短で森を抜けるべきでは」
私は地面に視線を落とし、土質を確かめた。
「……水はけが良い」
「は?」
「橋を架けるなら、ここより百歩下流だ」
マルクは黙り込んだ。
……今は戦時だ。この場所に、橋など架けない。それを、なぜ。
私は、正面に仮橋を架けさせる指示を出した。そして、その近くに本隊を控えさせる。
森に潜む伏兵を引きずり出すための餌だ。
敵は怯える。怯えずとも釘付けになる。
その間に闇に紛れて浅瀬を越え、森を抜けた別隊が、反対岸で孤立していた味方に合流する。
引き返すことはない。合流した戦力でそのまま補給庫へ突き進む手筈だ。
副騎士団長は眉を寄せた。
「王命は撹乱のみ。深入りは危のうございます」
「理由は問うな。ただ、退かぬ」
……この戦を終わらせるには、撹乱では足りない。敵の長期戦の望みそのものを、叩き折る。
兵士視点
川の水は、膝まであった。冷たさよりも、音の方が怖い。
鎧の擦れる音。石を踏む音。水のはねる音。
誰も喋らない。前を行く兵の背中だけを見て歩く。
浅瀬だと聞いていた。だが夜の川は、浅くても深く感じる。
森の向こうでは、槌の音がしていた。橋を架けている音だ。時折、怒号も聞こえる。
本隊が橋の前にいるのだろう。
敵もいるはずだ。
だから俺たちは、ここを渡っている。ただ、命令は一つだけだった。
――声を出すな。
岸に上がると、すぐに森だった。湿った土の匂いが濃い。先頭の兵が手を上げた。
全員が止まる。闇の中で、影が動いた。
剣に手をかけた瞬間、低い声がした。
「止まれ。味方だ」
兵が現れる。泥だらけの鎧だった。
「来たのか」
その顔は疲れていたが、笑っていた。
「孤立していた隊だ」
誰かが小さく息を吐いた。橋の方から、角笛が聞こえる。短く、鋭い音。
「釘付けだな」
孤立していた兵が言った。
「今のうちだ」
隊長が短く命じる。
「進む」
「どこへ?」
誰かが小声で聞いた。
「補給庫だ」
泥だらけの兵は森の奥を指さした。
「……ここから半刻だ」
俺はその方向を見た。暗い森の向こうだ。
橋の方では、まだ騒ぎが続いている。
その音を背に、俺たちは森を進んだ。
森を進むと、ふと、匂いが変わった。
煙だ。干草と油と、馬の臭いが混じっている。
補給庫が近い。隊長が手を上げた。全員がしゃがむ。
木の隙間から灯りが見えた。焚き火だ。
その周りに兵が数人。笑い声が聞こえる。
戦になるとは思っていない顔だ。
泥だらけの兵――さっき合流した連中の一人が、小声で言う。
「見張りは三つ」
指で順に示す。
「焚き火。荷車。倉の前」
隊長が頷いた。
「静かにやる」
剣を抜く音が、やけに大きく聞こえた。
合図は石だった。隊長が石を投げる。
カン、と荷車に当たった。見張りが振り向く。その瞬間だった。
「今だ」
誰かが走った。俺も走る。
草を踏む音。鎧のぶつかる音。見張りが叫びかけた。
だが遅い。隣の兵が槍で突いた。男が焚き火の中に倒れた。火が散る。
「敵襲!」
声が上がる。倉の扉が開いた中から兵が飛び出す。矢が、飛んできた。誰かが倒れた。隊長が怒鳴る。
「倉を押さえろ!」
俺たちは倉へ走った。敵兵が剣を振り下ろす。受ける。腕が痺れる。
横から味方の槍が突き出た。敵が崩れる。
倉の前で押し合いになった。
扉が閉じかける。
「閉めるな!」
泥だらけの兵が体当たりした。扉が弾けた。
中は暗かった。だがすぐに分かった。
袋だ。
山のような袋。穀物。油樽。葡萄酒。矢束。
「補給庫だ」
誰かが息を呑んだ。外ではまだ剣の音がしている。だが長くは続かなかった。
しばらくして、角笛が鳴った。
短い音。
味方の合図だ。戦いは終わった。
戻ると、焚き火が残っていた。
煙が空へ上がっている。橋の方角は静かだった。
隊長が言った。
「火をつけるな」
兵たちが顔を見合わせる。普通なら焼く。補給庫は燃やすものだ。だが命令は違った。
「封鎖する」
夜のうちに倉の周りへ荷車を並べ、簡易の柵を作った。森へ斥候も出た。
奪った以上、ここを守らねばならない。
泥だらけの兵が笑った。
「敵は明日、飢えるな」
誰かが言う。だが、隊長は首を振った。
「違う。飢えさせるためじゃない」
そして倉を見上げた。
「ここはもう、俺たちの補給庫だ」
俺はその言葉を聞きながら、川の方角を見た。あの橋の騒ぎは、全部――囮だったのかもしれない。
誰かが小声で言った。
「……だとしたら、この策を考えたのは誰だ」
泥だらけの兵が肩をすくめる。
「さあな。俺たちにゃ分からん」
焚き火の向こうで、年嵩の兵がぽつりと言った。
「隣国から来た客将らしい」
「客将?」
「名を……レオンハルトとか言ったか」
誰かが口笛を吹いた。
「王子だって話もある」
俺はもう一度、川の方を見る。
闇の向こうで、まだ橋の槌音が響いていた。
角笛の合図があった。補給基地は数時間で落ちた。火は放たない。燃やせば終わる。
……望みは焦土ではない。焼けば敵は飢える。だが飢えは憎しみを育てる。
私が望むのは敵の滅びではない。長く続く戦の理由を、奪うことだ。補給を奪うのではなく、共有する道をつなげる。
あの夜、マルクは言った。
「殿下、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
私は視線を上げる。
「申せ」
「なぜ、あの場所を確かめられたのです」
私はしばらく答えなかった。
「……戦のためではない」
マルクは眉を寄せた。
「では、何のために」
私は川の方角へ目を向けた。
「いずれ戦が終わる」
静かに言う。
「その時、川に橋を架ける者が要る」
マルクは黙った。
「森を抜け、交易地へ最短で至る道もだ」
焚き火がはぜた。
「補給線を断つためではない」
私は続ける。
「国境を越え、人と荷を流すための道だ」
マルクはしばらく何も言わなかった。
やがて小さく息を吐く。
「……殿下らしいお考えです」
マルクは川を見た。
「戦が終わった後の、道ですか」
私は答えなかった。
川の音だけが、夜の中で静かに続いていた。




