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翌朝。
私は評議室へ招かれた。
昨夜とは違い、卓上には戦図だけでなく、銀盆に載せられた聖典と短剣が置かれている。
その意味は、言葉よりも明確だった。
宰相が告げる。
「殿下を、臨時軍務官として迎え入れます。ただし条件がございます」
室内の空気が張り詰める。
「本隊の指揮権は持たれませぬ。任されるは小規模機動部隊のみ。任務は敵補給線への攪乱」
騎士団長が続ける。
「副騎士団長が補佐につきます。進言はしますが、最終判断は殿下に委ねます」
王が静かに言う。
「これは試しではない。同盟者として、対等の責を負うということだ」
沈黙。
王は聖典を指で示した。
「ここに誓うか。 我が兵を、我が民を、軽々に賭けぬと」
一瞬の沈黙。
私は一歩、前へ出た。
銀盆の上に置かれた聖典へ視線を落とす。
重みは、紙ではない。誓約の重みだ。
マルクの気配がわずかに揺れた。――だが私は振り返らない。
短剣の柄に手を置く。
冷たい金属が、掌に現実を伝える。
王の目が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
逃げ道はない。
いや――最初から、選ぶ気もない。私は聖典に指先を触れた。
「承る」
迷いは、ない。さらに続ける。
「兵数、任務範囲、裁量権の限度をお聞かせ願いたい」
騎士団長は一瞬、私の目を見た。
値踏みするように。やがて短く答える。
「詳細は、後程お伝えする」
「了解した」
私はうなずく。余計な言葉はない。
室内に残ったのは、私とマルクだけだった。
数拍の沈黙。
マルクが一歩近づき、低い声で言う。
「殿下……危険です」
私は窓の外、遠く霞む城壁を見ている。
「当然だ」
「試されています」
「分かっている」
マルクの声がわずかに硬くなる。
「成功すれば利用され、失敗すれば切り捨てられる。これは好意ではありません」
私は静かに笑った。
「仕事というものは、だいたいそういうものだ」
マルクが顔を上げる。私は振り向いた。その目に迷いはない。
「受けた以上、やるだけだ」
短い言葉だった。だがそこに、覚悟がある。
「条約を書き換えた以上、私は“机上の男”ではいられない。あの王は、それを確かめたいのだろう」
マルクは唇を結ぶ。
「……では、勝つおつもりで」
私は即座に答える。
「勝算を作る」
そして続けた。
「まずは情報だ。敵の補給路、地形、兵の質。感情で動くな。数字で考える」
マルクの目がわずかに和らぐ。
「承知しました」
私は最後に言う。
「怖いか」
「……少し」
「私もだ」
一拍。
「だから準備する」
部屋の空気が変わる。
試練は始まった。
だがそれは、王に試される戦ではない。
自分の立場を、掴みに行く戦だった。
私は自室へ戻ると、静かに息を吐いた。まさか、本当に必要になるとは。
――私は、軍議に加わるだけだと思っていた。盤面を読み、選択肢を示し、最適解を提示する。それが私の役割だと、どこかで思い込んでいた。
だが違う。これは議会ではない。戦争だ。
軍議に出るということは、戦場に出るということだった。
前世の常識が、どこかで私を鈍らせていた。
会議で責任を負うことと、矢が飛ぶ中で責任を負うことは、同じではない。
私は、そこまでの意識が薄かった。
護衛の騎士たち。マルク。
彼らは命を懸ける。私の判断で。
胸の奥が、わずかに軋む。
机の上の数字なら、修正できる。だが命は、戻らない。
……甘かった。
私は、彼らを戦争に加担させる。
それが、王族という立場だ。
だが一方で、その立場が私を前へと押し出してもいる。
あのとき、なぜエリシアの背に声をかけたのか。今なら分かる。立場は、重荷であると同時に、勇気でもある。私は騎士団長ではない。宰相でも、商人でもない。
だが――王子だ。
始まってしまった戦争に、無関係ではいられない。たとえ居合わせただけの来賓であっても。私は、私にできることをやる。
王族として。
国の代表として。
同盟を結ぶと誓った者として。
扉が叩かれる。
「殿下」
入ってきたのはマルクだった。その腕には、磨き上げられた鎧と剣。
「最終確認を」
差し出される。私は手に取る。自分特製の鎧。軽量化され、可動域を優先した造り。
前に立つためだけではなく、生きて指揮を執るための設計だ。
剣を抜く。鈍く、確かな音。
……ああ、そうか。今の人格が宿る以前。
私が「私」になる前。“目立たぬ王子”と呼ばれていたレオンハルトに、いまは感謝すべきだろう。
彼は影で努力していた。人知れず、鍛錬を積んでいた。その証が、この体に残っている。
剣を握る。
柄を締めた瞬間、理屈ではない感覚が走る。
踏み込みの角度。重心の移動。刃の軌道。
考えずとも、体が知っている。
柄から伝わる熱が、自信となって全身に広がる。
刃に映る自分の顔を、私は静かに見つめた。
そして、わずかに頷いた。
「……問題ない」
鞘に戻す。剣の重みが、決意の重みと重なる。
……この重さの中には、彼らの命も含まれている。
私は顔を上げた。
「護衛を呼べ」
マルクが一礼し、すぐに手配に動く。ほどなくして、六人の騎士が入室した。五人は王家直属の近衛。幼少より選抜され、鍛えられた精鋭たち。
そしてその中央に立つ一人。王家近衛騎士団副長――かつて私の剣の教師でもあった男。
年齢は重ねたが、背筋は揺るがない。視線は鋼のように静かだ。
旅路を共にしていた。だから、挨拶は不要だ。私は短く問う。
「もう聞いているか?」
副長は一歩進み出る。
「臨時軍務官の件、承知しております」
声は低く、揺れない。
「一隊を預かり、前線指揮を執られるとか」
「そうだ」
視線が一瞬だけ交わる。試されているのは、私だけではない。副長は静かに続ける。
「護衛は六。通常の陣形ではなく、機動重視で組みますか」
「当然だ。守るだけでは意味がない」
副長の目がわずかに細まる。昔、木剣を握っていた頃と同じ目だ。
「……よろしい」
五人の近衛が片膝をつく。副長も続いた。
「殿下の命に従います」
胸の奥が、わずかに重くなる。
彼らを戦場に連れて行くと決めたのは、私だ。
私は剣を鞘に収めた。
「前に出る。だが無駄には出ない」
副長の口元が、ほんの僅かに上がる。
「承知」
戦場へ向かう空気に変わった。
……戦は誉れだと人は言う。
私には勘定にしか見えない。
兵を減らさずに勝てるか。それを見たいのだろう、あの王は。
ならば、結果で語ろう。それが私の戦いだ。
できるのか。
……やるしか、ない。




