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王都の石造りの塔、最上階の評議室。
壁には大国の紋章旗。長卓の中央には、羊皮紙に描かれた国境線と街道、砦、河川の地図が広げられている。赤と黒の駒が、互いの軍勢を示していた。
王が着座すると、室内のざわめきは消えた。
右に宰相。左に騎士団長。卓の両側には有力侯伯と、王許を得た大商人たち。
王は静かに告げる。
「……戦は、動かぬか」
宰相が報告書を開く。
「前線は同じ位置にございます。敵は丘陵地帯に陣を固め、補給路を森で覆い、決して平野に出て参りませぬ」
騎士団長が低く唸る。
「攻めれば損害が出る。退けば士気が落ちる。向こうも同じかと」
侯爵の一人が苛立ちを隠さぬ声を出す。
「大国たる我らが、なぜ押し潰さないのか」
騎士団長は視線だけで制する。
「丘を登る攻撃は三倍の損を出す。敵は弓兵を高地に置き、騎兵を森の縁に伏せている。無理に出れば、こちらが削られる」
宰相が付け加える。
「兵糧の消耗は、我らの方が大きい」
商人ギルド長が口を開いた。
「穀物価格は既に上がっております。塩の流通も滞り始めた。このままでは王都の民が騒ぎます」
伯爵が眉をひそめる。
「戦は前線だけの話ではない、ということか」
「左様」
商人は頷く。
「兵が動かずとも、金は動く。戦が長引けば、商いは痩せます」
王は卓上の駒を一つ指で弾いた。
「敵は何を待つ」
宰相が答える。
「我らの焦り、あるいは内部の綻びかと」
騎士団長が地図を指す。
「敵は川上を押さえている。橋を落とし、渡河を困難にした。こちらが兵を分ければ各個撃破される」
侯爵が言う。
「ならば兵を倍に」
「倍にすれば、兵糧も倍です」
商人が静かに返す。
沈黙。膠着。
王は立ち上がり、窓外の城下町を見下ろした。煙突からは煙が立ち上る。市場は開かれている。だが、その裏で税は重い。
「敵は正面決戦を避けている」
王は振り返る。
「我らが強いと知っているからだ」
騎士団長がうなずく。
「ならば、どう崩す」
宰相が提案する。
「小競り合いを増やし、補給路を断つ。敵を飢えさせては」
商人が慎重に言う。
「しかし、それは我らも同じだけ疲弊いたします」
伯爵が声を荒げる。
「では、このまま睨み合いをするのか」
王は静かに言う。
「戦は、剣だけでは決まらぬ」
一同が息を呑む。
「正面からは攻めぬ。小部隊をあえて森へ出す。敵が追撃に出たところを、伏兵で挟む。
籠もる敵を、外へ引きずり出すのだ」
宰相が理解する。
「膠着を、敵の選択に変えるのですな」
「そうだ」
王の声は低く、重い。
「動かぬ戦は、民を削る。ならば動かせ。こちらが動くのではない。敵に動かせるのだ」
騎士団長が拳を握る。
「それまで、持ち堪えるか」
商人が言う。
「資金は用意いたしましょう。ただし、戦が長引けば貸しは重くなります」
侯爵が苦々しく笑う。
「戦場だけでなく、帳簿でも血が流れるか」
王は玉座に戻り、全員を見渡した。
「この膠着は敗北ではない」
静寂。
「だが、勝利でもない」
燭台の火が揺れる。
「大国は焦らぬ。しかし止まらぬ」
そのとき。重い扉が開いた。
扉の向こうに立つのはエリシア。その一歩後ろに、隣国の第三王子殿下。
エリシアは静かに進み出て告げた。
「殿下は、同盟者としてこの戦に力を貸すおつもりです」
室内の空気が、わずかに揺れた。
「――待て!」
侯爵の一人が立ち上がる。
「他国の王族を軍議に入れるなど前代未聞! 機密も機密、国家の命脈に関わる!」
「左様!」
別の伯爵も声を荒げる。
「万一情報が漏れれば、どう責任を取る!」
騎士団長も厳しい目を向ける。
「殿下。我らは貴殿を賓客として遇している。しかし戦は別だ」
静かな緊張。その中で、商人ギルド長が口を開いた。
「しかし殿下は、剣ではなく知で勝たれたお方」
視線が集まる。
「条約の再編。学院構想。いまや両国は境目なき交流を始めようとしております。一蓮托生の間柄にございます」
宰相が低く問う。
「ならば、知恵を借りぬ方が損と申すか」
「左様」
室内が割れる。常識と革新。安全と可能性。
騒然とする中、宰相は評議室を出て扉を閉めた。廊下で待つ第三王子に一礼する。
「本日は、殿下には部屋へお戻りいただきたい。明朝改めてお伝えいたします」
あの条約を書き換えたのは、他ならぬ隣国の第三王子である。大国に不利ではなく、しかし一方的でもない。互いに利を結び直したその手腕は見事だった。学院設立の協議の場の発言も、王も宰相もその能力を認めざるを得なかった。
だが――紙の上の才覚と、戦場の才覚は同じではない。
王は地図を押さえたまま、ふと視線を上げた。
「……エリシア」
名を呼ばれ、彼女は一歩進み出る。
王の声は低く、だが鋭かった。
「何故、レオンハルト殿下を軍議へ入れようとした」
室内の空気が張り詰める。
「軍議は、国家の命脈に関わる。機密も多い。解らぬか」
その言葉に、エリシアの顔色が変わる。
「……浅はか、でした」
小さく、だが確かな声。
王はしばし彼女を見つめ、ゆるやかに頷いた。
「何を聞いたか分からぬが、動じるでない」
エリシアは一度、顔を伏せる。
「……はい」
王は続ける。
「軍議に臨むということは――戦に出る、ということだ」
その言葉に、エリシアは顔を上げた。
瞳に浮かんだのは、理解と――わずかな戸惑い。
戦場とは、紙の上の駒ではない。命が削れ、責任が積み上がる場所だ。
王は静かに言う。
「殿下がそれを承知であるならば、話は別だ」
室内の沈黙が、再び重く落ちた。
「殿下は、託す価値があるか?」
エリシアが静かに応じる。
「学院設立の協議のために滞在中。ですが」
騎士団長が顔を上げる。
「盤面の奥まで読んでいるかと」
室内の空気がわずかに変わる。
騎士団長は無言で地図を見つめた。王は続けた。
「条約は結ばれた。ならば我らは友であり、同盟者だ」
わずかに口元が歪む。
「同盟者ならば、共に戦場に立てるはずだ」
宰相が慎重に問う。
「真に受けられますか。他国の王族を軍の中枢に入れることになります」
騎士団長の声は低い。
「万一のことがあれば、外交問題では済みませぬ」
「あるいは」
宰相が続ける。
「失敗すれば、条約そのものが揺らぎます」
王は地図へ視線を落とす。
「だからこそ、扱いを誤るな」
騎士団長の目が鋭くなる。
「本隊ではなく、限定的な任務にいたします」
「無論だ。敵の補給線を叩く小規模作戦。成功すれば戦果、失敗しても致命傷にはならぬ」
宰相が指摘する。
「しかし殿下が無謀に出れば、損害は出ます」
「それでもなお、申し出たのだ」
王の声は冷静だった。
「条約を書き換えた胆力が、矢の飛ぶ中でも保たれるか。兵を前に、決断が鈍らぬか」
騎士団長が口を開く。
「補佐を付けます。副騎士団長を側に。助言はするが、決断は殿下に」
「口は出すな。命を救うための進言は許す。だが主導は奪うな」
沈黙。やがて宰相が静かに言う。
「もし殿下が見事にやり遂げれば?」
王の目が細くなる。
「その時は、条約の価値が増す」
「そして失敗すれば?」
「同盟の覚悟が足りなかったと分かるだけだ」
燭台の炎が揺れた。王は窓の外、遠くの前線の方角を見る。
「紙の上で国を動かした男だ。自ら戦場に立つと望んだ」
わずかに間を置き、続ける。
「ならば血の臭いの中でも国を動かせるか、見てみたい」
騎士団長が深く一礼する。
「明朝、殿下をお招きいたします」
王は最後に静かに言った。
「これは試練ではない。――同盟者としての対等な機会だ」
エリシアは一歩進み出る。
「――御裁可に、感謝申し上げます」
裾を摘み、王女としての礼を深く取った。
だがその実、王は知っている。
戦場ほど、人の器を正確に映す鏡はないことを。




